アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「また逢う日まで」という映画の中に、戦争に行く恋人を女が見送るシーンがあります。男が雪の中を歩いて行く。ふと振り返ると、女がまだ硝子越しにジーッと見つめている。感極まって、雪の中を男がダーッと走って戻って来る。そして硝子越しに暑い接吻をするのです。この面白さは透明の硝子を一枚挟んで接吻していることです。決して引っつくことがないわけです。このことを「間合いの美学」と九鬼周造は言っています。
ところで尾形光琳の「紅白梅図屏風」ですが[4]、金屏風であること、紅梅白梅であることから祝い事の絵であるとよく解説されますが、実はそれだけではありません。赤い梅が女性で、白い方が男性という二元対比ですね。そこで間合いが大事になる。さきほどの硝子越しの接吻の硝子に代わるものが早春の冷たい冬の川なんです。この流れは早春ですから冷たい綺麗な水が流れていないといけないのに、渦を巻いて不気味に描いてあります。この絵は二元対比を意味していますから、二重の意味になるということです。だからお祝い事の裏側には悲しみ事、人生のはかなさが隠れていなければいけないのです。太田道灌の歌の中に、
七重八重花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき
というのがあります。よく見ると光琳の梅の木はどちらも老木です。さらに見ると、切らないといい実がならないアゴという無駄枝が描かれています。花は咲いても実にならないんです。実にならないという二人の悲しさがここにある。しかも、川というのは片時もとどまることなく流れているわけです。明日をも知れない、そういう不気味さ、人生のはかなさがこの絵の中にあるんですね。
このような、裏側にどういう「もののあわれ」が潜んでいたか、ということが二元対比の美学であって、単にものが直線と曲線で対比されたらいいというものではないと思います。
「竜安寺」の石庭は、白河砂のドライなものがあって、塀の向こうにうっそうと茂ったウエットな緑があります。では間合いは何かというと、深い軒にあるわけですね。塀というのは六尺もあるような深い軒は必要ない。それがあんなに深いのはなぜかというと、太陽光線が当たって軒下に深い影が出来るからなんです。これが「無の世界」です。この「無の世界」が間合いになって、ウエットなものとドライなものと二元対比させているわけです。よく見ると、塀の際にある向こう側の石は自然石を使っています。雨だれが樋の代わりになっている溝に落ちます。一方はまっすぐ一直線の御影石、他方は自然石で二元論なんです。このような二元対比によって、情念のような何か深いものを感じさせるんです。そういう美学を、現代建築で表現するんです。
いよいよ私の建築に入っていきますが、今まで言ったような伝統を通して、現代建築をどうつくっていくか、ということを説明できたらと思います。
これは久し振りにつくった数寄屋です。この建築には樋がありません。雨だれを優しく受けるために那智黒が入れてあります。この黒は影を意味しています。この那智黒石を挟んだ両サイドですが、御影石という固い材質の直線と瓦というやわらかい材質の曲線の対比、つまり素材も形も二元対比になっています。そしてその間合いを面白くするために那智黒石を入れています。
また、縁側のナマコのような沓石に対して直線的な石が二元対比しています。この場合の間合いの面白さは土間である、砂や砂利などが出ている土を敷くことによって演出しています。伝統から学んだ面白さをそのまま実践している例です。