アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
千利休が残した「待庵」では、床框が丸太であって、落とし掛けに角材を使っています。丸いものと四角いものの二元対比ですね。この間合いである床の間を面白くするために、花や絵や書が飾られます。そして回り縁に竹が露出しています。利休はいろいろと材料を変えても全体として一つの「木」に統一しています。正面の回り縁だけが竹で、横手の回り縁は丸太です。丸太は、光を吸収して光りません。床の間という正面の回り縁である竹だけが光っています。透視図的に人間の視線を中心に集めていくわけです。そういう役をしつつ、しかもこの薄暗い空間の中で竹だけが光り、チャーミングで緊張感を表出しているのです。このようにこの空間は二元対比されながら、一つに視線を集中させ、さらに空間の無限化を計るために床の間の隅には柱がありません。
もう一つ面白いのは、「俗語を用いて俗を離るるを尚ぶとす」「このいらなくなったものが何だってこんなに面白いんだろう」という心が語られていることです。茶室は本来捨ててしまった材料でつくられているんです。例えば百姓が捨てたワラの天井とか、難破船の船板とか。もういらなくなった材料の中から、利休が美しいと思う材料を見出すことによって出来た美しい建築。日本では、いらなくなった材料で出来た今も美しい建築は茶室なのです。ワラすさが出たままの牛小屋や馬小屋はいくらでもありますね。これは牛小屋と同じ壁なんです。下塗りをして中塗りをしてじゅらくの上塗りをかけるとこのようなワラすさは出なくなる。ところが出ているということは、牛小屋と同じ俗っぽい材料なんです。そして暗闇の中で土が光をどんどん吸収していくとき、このワラすせが何パーセントかの光を反射して優しく光るのです。それが面白いと利休は思ったのでしょう
今まで私が語ってきた美学を背景として、現代の材料で伝統の持つ精神美、あるいは哲学みたいなものを少しでも表現できたらという考え方からつくった「竹葉亭」という料亭です。そのプランですが、廊下がありまして、廊下から入ったところに四十五度に振った正方形の島(客室)があります。この案をロイヤルホテルにもっていったところ、四十五度に振らなければそのスペースに客席がもう二席ぐらいとれるからだめだと言われてしまいました。あかんのやったら止めますわぁ、ということで降りることにしたんですが、竹葉亭の女主人が「その二席分だけ私がお金を払うからこのプランでぜひやらせて欲しい」と頑張ってくれて実現しました。
「竹葉亭」ですからインテリアは竹薮の規定です。竹薮の中にかぐや姫がいて、鬼がいるわけです。姫の道と鬼の道をこしらえます。「姫への道」はアルミニウム(銀色)で、「鬼への道」は鉄板(茶黒)です。間合いを置いて、鉄とアルミが対比されています。茶黒の色が持っている人間の怨念とか情念とかドロドロしたもの、ウエットなものを鉄は感じさせます。一方、ステンレスはキラキラすぎて、そんなものは何も感じさせない、ドライです。そんなことを読みとりながら素材を選んでいきました。姫の道はアルミニウムのチェッカープレートですね。これは飛石の上に竹の葉がチラチラと散っているという想定です。竹の葉の銀色の絨毯があるわけです。鬼の道は鉄板をハンマートーン仕上げしてあります。物語性を建築の中に込めようというわけです。チェッカープレートと鉄板という俗っぽい材料を持ってきたわけです。俗っぽい材料をどこまで俗っぽくないようにするかというのがプロの勝負になります。「俗語を用いて俗を離るるを尚ぶとす」なのであります。
そこで、今度はこういう冷たい空間を、どう色っぽくするかということになります。鬼の道ですから、ここに鬼がいます。そして、ここに桃があるわけです。何で桃があるかというと、鬼退治をしたのは桃太郎ですね。桃太郎より強いのは誰かというとお母さんですね。つまり桃になりますね。桃がこの空間の中で、色気を表現していくのです。今、皆さんは桃がないとしてこの空間を見てください。どんなにこの空間がつまらないか。たった一つの桃がこの空間に影響していって、空間を色っぽくしているんです。アイロニカルな美学を通しながら空間を面白くしようという狙いです。床に蛇紋石を使用していますが、これはコケの抽象化です。
店舗に出ます。夜明けの太陽を意味している壁があります。十四色が使われてますが、この色を「はんなりした色」と伝統では言っています。「はんなり」とは「花なり」という意味だろうと私は思います。花と言っても、チューリップやヒマワリのような花ではありません。世阿弥は「花は萎れたるがよし」と言っています。茶花の美学というのは萎れの美学なんですね。白を一番元気な色とし、黒を死とすると、萎れは鼠色〈グレイッシュ〉です。そういうことより、朝顔が朝日を浴びて少し萎れかかっている、そんな花色を表現したものです。リズム・アンド・アクセントとして赤を持ってきています。
これは鉄板で出来た床の間です。天井と欄間はラスで出来ています。鉄板はさきほど言いましたように、怨念・情念・優しさといったものを感じさせます。日本の木造のお寺、木造の民家はすべて茶黒になるわけですね。それはわれわれの伝統の中に馴染んだ色です。ですから、木の茶黒と鉄の茶黒は同じものだと言えます。ラスは文化住宅をつくるときのモルタルの下地材料ですね。それはデザインとして登場してくるものではないし、ましてや超高級の料亭の中で登場できるものではない。しかし、蕪村は俗が面白いと教えているのですから、ラスという俗を使って面白味をつくろうという考えです。天井もパンチングメタルを骨にして、ラスが二重に挟んであります。この三角は女性を意味してきます。上の直線に対して、カーブが二元対比されながら、なおかつ抽象化された女性がここに登場することで、空間が金属の持っている冷たさに対し「氷ばかり艶なるはなし」という心敬僧都の美学を表現しようとしているわけです。この心敬の言葉ですが、「氷が色っぽい」というのですから、氷のように冷たいアルミや鉄が色っぽくデザイン出来ないようではだめなわけですね。金属をどう色っぽくするか。チェッカープレートをそのままにしておくと、色っぽくならないんです。それで私は、自分自身で表面を削り取ったんです。すると、色を乱反射してくるんですね。工場でつくったものと地金を比較してみてください。世阿弥の言葉にこういうのがあります。
ツクラザルトコロハトキトシテツクリタルトコロヲイカス
ツクラザルトコロハトキトシテツクリタルトコロヲシノグ
「つくったところよりも、つくっていないところの方が美しいことがある」「つくっていないところがあるから、つくったところが生きてくる」というわけですね。そのように伝統の美学の中からヒントを得てこしらえていくんです。
姫の道の鉄板のジョイント部分です。ホッチキスは一つだけだとつまらないけれども、群にして扱うと、「平凡性の集合は時としてアートになる」という例です。
わが国では板が割れると楔を打ちますが、これは鉄板に対して楔を打ったものです。 小さいステンレスですからいやらしくない、むしろ蝶ネクタイのようでチャーミングです。靴の編み上げがありますね。このようにジョイントしていくと面白いわけです。
これはドアのところにルーズリーフノートを持ってきたものです。丁番だけでは面白くない。でもこうやると、ドアに装飾がなくても、これが装飾の役目をしてくれます。なんでこういうものを見せているかというと—アドルフ・ロースが、ウィリアム・モリスが「装飾は敵だ」と言いました。けれども、ウィリアム・モリスは最後まで、蔦や蝶やら花などの装飾をしています。コルビュジエはそうではないわけですね。あらっぽいコンクリート打面にへばりついてくる陰翳礼讃、翳りに着目し、それを彼は装飾としていくのです。装飾と見えない装飾をどうやるか。利休がすでに「待庵」でやっていることですね。それをやっていけばいいわけです。