アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
女性の裸—色っぽいといいますね。しかし、例えばストリップショーなんか、いくら美しい体の女性が裸になっても、「美しい」という言葉には至りません。ところで聖母マリアが裸になったら、いったい皆さんどうなると思いますか。これが問題なんです。「色気の抽象化」です。普通の女が裸になると、下手するとストリップショーのような下卑たものになってしまいます。ではさきほどの答えですが、聖母マリアが裸になるとヴィーナスになるんです。これが大事なことなんですね、建築家にとって。色気の抽象化、つまり俗っぽいものをどうヴィーナスにするかということが勝負なんです。ボッティチェリの絵を見てください[6,7]。彼は聖母マリアを毎日描いていました。ところが、とうとうある日飽きてしまって、聖母マリアを裸にしてしまったんです。それがヴィーナスなんです。だから聖母マリアとヴィーナスは同じ顔をしています。こういう、人間レベルではなく、次元の高い色気を建築の空間にどうデザインしていくかということがプロの勝負だと思うのです。
ところで、「陽暉楼」という映画の名取裕子ですが、彼女の裸の軸線をとると、歪んでいるんです。それで、これは「篁庵」という茶室ですが、中柱の軸線がこのように曲がっていますね[8]。それ以外は直線です。すべてが直線であるときに、中柱だけが曲線なんですが、これは女性を意味しているんです。この薄暗い空間の中にこれまで直線にしてしまうと、色気が出てこないから野暮になってしまいます。それにこれは赤松ですから赤黒い。「幽玄」の「玄」という字は「赤味まじりの黒」という意味です。つまり血、メンスです。「素人」・「玄人」という言い方がありますが、玄人というのは色気を商売にします。「玄」とはそういうことです。
こういうものを持っている抽象化された軸線が、ここに存在しているわけです。つぎに、問題は中柱下部の股のところにあるんです。これは小堀遠州の作です。遠州のすばらしいのは、床の間の一方の側が真体の空間、もう一方が草体の空間になっていることです。そして、真と草の間合いが行体の空間なんです。世阿弥は「セヌトコロガオモシロキ」と、つまり、男と女の間合いを面白くしろと語っているわけですが、ここでは真と草の間合いを面白くするために股のところに絵があるんです。
草体の方にはなんにもない。正面に座るとそこだけ絵が出るようになっています。これには世阿弥の美学がそのまま生きています。また、小堀遠州の美は「真・行・草」の書のように生きた一休和尚の美学を建築にしたものとも言えます。