アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
数寄屋というのは「奇数」という言葉をひっくり返したもので、偶数はだめなんです。奇数は余りがでる。その余り、すなわち「余白の美」です。これが日本の伝統の美学です。例えば皆さんが倉敷の町を見て、倉敷が美しいなぁと思うのは余白なんですね。描かれたところより描かれていない壁が美しいのです。
この建物がある場所は倉敷のある岡山県です。倉というのは沈黙を意味しています。倉が持っているその沈黙の美学—
古池や蛙飛びこむ水の音 閑かさや岩にしみ入る蝉の声
皆、沈黙ですね、日本の美学は。そういう沈黙の美学を建築に込めてみようというのがこの建築です。
この曲面の屋根はスレートなんです。その軒先やけらばは亜鉛鉄板で出来ていますが、その先端が凸凹していたのでは沈黙にならないので、アルミの手摺り金物を半分に切って、被せることで、シャープでソリッドな美しさを出しました。逆アール・デコの思想です。落とし掛けには階段の手摺りがありますね、そういうものをここに使っています。畳の縁もカーテン地で出来てます。「高麗縁いとおかし」という清少納言の美学ですね。
「朧月夜」ですから、ここがちょっと膨れてるでしょう。夜はここに朧月夜が出るわけです。中から光が出てくるんです。昼間はここから太陽光線が入って朧月夜が出てきます。ここは将来仏間になりますからこの襖は、「輪廻転生」の「合掌する」意味を持たせました。輪廻転生で、女性を意味しています。鴨居は角パイプを半分に切って鴨居にしてますから、襖だけで立ってる感じなんです。鴨居が垂れないようにワイヤーで吊ってあります。ワイヤーが実は欄間の代わりの装飾をしているわけです。中から開けると、外側に瓦の庭が見えます。
これはもう随分前になりますが、五十坪ぐらいの小さな住宅です。今は瓦礫のように瓦を放ってしまいますが、その放ってしまう瓦がなんでこんなに美しいんだろう、という心に立って古瓦を庭に残したんです。古瓦ですから、随分欠けています。でも古瓦が美しいわけですね。全体としては富士山の恰好をしていますが、海と思ってもらってもいいんです。真ん中に島があって、流政之の彫刻があります。潮がここに当たっています。潮の高いところに棟瓦の荒いオスの方をこのように使っています。潮の当たらない裏側は波が静かですから、メスの方の瓦があるわけですね。両方の潮が当たるところは必ずここに渦を巻きますので、こういう形になっているわけです。そして、周りにリュウノヒゲを、後ろにヒノキを一列植えて、向こう側のプレハブ住宅を見えなくしています。間合いを面白くする意味で、彫刻がここに一つあるわけです。
「貴方のコンセプトを語りながら和風の教会をつくりなさい」ということで—。切妻の教会を考えて、これを図面化すると実につまらないものになります。その図面を使って教会で説明することになりました。牧師さんはこれでいいと言うのですが、皆はこんなのだめだと言うのです。お前はヨーロッパへ行ったことあるか、ノートルダム寺院を見たことあるか、こんな倉庫みたいなもんアホか、ゴシック建築とかロマネスクとか知らんのか、知ってるんやったらそうせんか—と、わりと失礼なことを言うわけです。ところが、坪四十万円で床暖房までしろと言うんです。それでゴシック建築みたいなものができるわけないですよね。いくらキリストやいうてもそんなんできしません、と私は一旦仕事を降りることになるんです。
ところがこれが建つわけです。これをつくる五年ほど前にサントリーニとミコノスに行きました。船で着いて、ロバに乗って頂上まで上がるんですが、人口二千人ぐらいしかいないところに、教会が四百以上あるわけです。五人に一つ教会があるということは、一所帯に一つ教会があるということですね。さて、私はロバから降りました。誰もいないシーンと静まり返った中に、真っ白の道と、真っ白の建物があって、ブーゲンビリアの赤い花がパーッと咲いていて—。小さな島ですから、背景は皆、真っ青な海です。そして真っ青な空。ゾクッとする美しさです。そのときに私は、本当にギリシャのこの小さな島に神様はいらっしゃるなぁ、と感じました。その建築は、ロマネスクでもなければゴシック建築でもないんです。貧しいから、家を建てるときは瓦礫を積んで、石灰を塗る。道も瓦礫を敷いて石灰を塗る。だから真っ白な道が出来るわけです。それでは教会はというと、それも同じで、島民が集まって自分達の家と何も変わりなくつくったんです。よくよく注意して見ると小さな十字架がちょっと付いていて、これは教会だったんだな、と気づくんです。今、私は神の島に立っているんだ、という気がしました。
私は言いました。「皆さんがもしも日本にキリストが定着したというのなら、日本のかたち、日本の材料で教会をこしらえてこそ、キリストは本当にお喜びになるんじゃないでしょうか」と。「ロマネスクだとかゴシック建築と言っている間は、キリストはまだまだ日本では借り物ですね。情けないですね。きっとキリストはお悲しみになるでしょう」と。僕はこれで帰ります、と言って帰りかけたところ、信徒総代がパッと台に上がってきて私をつかめて言いました。「今、神の声を聴きました」と。突如私は神様になってしまいました。そしてこれが建つことになるというわけです。
ところで坪四十万円しかないのをどうつくるかということになってくるわけです。昔の古い仮枠を使っているから襞がたくさんある、あるいは正面を小叩き仕上げしているから中から砂や砂利が出る、それが一つの装飾の役目をします。
教会の中にはステンドグラスがありますが、ステンドグラスは値段が普通の硝子の二百倍もします。あまり高いから日本の教会は皆、色ガラスなんです。色ガラスでも十倍ぐらいします。ステンドにしないとつまらない喫茶店みたいな教会になってしまうし、お金はない。そこでどうしたかというと、銀色というのは神様、金色は仏様を意味しますから、銀色の箔を貼って、天窓をこしらえてセロファン紙を貼りました。太陽光線が当たるとパッと七色に出て来るわけですね。高価なステンドグラスを使わずして、ただみたいなセロファン紙で七色の光を出すというアイデアは、伝統の中から生まれてくるんです。それは、藤原定家の
見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕ぐれ
にヒントを得たのです。
真円と正三角形と正方形は神の形であるとさきほど説明しました。お金がないので、この扉はパイプを切ってジョイントしてあるだけです。これは真円の半分ですが、正面の扉はこういう半円で、その奥が駐車場になっています[28]。駐車場の扉の召合わせを十字に切っています。十字架が切ってあるから、その奥にある中庭から光が飛んできて闇の中に十字架がふっと浮かぶという二元論ですね。しかもこれは東洋の模様、日本の模様、青海波の模様です。そういうものと、十字架という西洋の精神性の深いものとの二元対比の中にある美学を見出していきます。
こう言うことをしていかないと、二十一世紀の建築はますますドライになっていってしまう。絵にならない現代都市は、もうこれでおさらばした方がいいのではないか、というのが今日の私の一番いいたいところです。