アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
震災復興で僕が関わった活動はたくさんあるのですが、その中でひとつ実際に実現をした計画をご紹介します。岩手県釜石市の復興公営住宅です。釜石市は津波で甚大な被害を受けました。市の方々は非常に前向きに、「なるべく釜石らしい街をもう一度つくりたい」と立ち上がり、建築家の伊東豊雄さんや東北大学の小野田泰明さんが復興ディレクターとなって、さまざまなプロジェクトが動きました。
僕たちは、釜石で4つの公営住宅の設計に携わりました。大町に2ヵ所、天神と只越に1ヵ所ずつです。もう既にご存知の方も多いかもしれませんが、被災地では、これまでのように建築家が何か設計をしても、入札の際にお金が合わず結局最初から仕切り直しになり、結果的に被災した方々がさらに長い時間、仮設住宅暮らしをしなくてはいけなくなるようなことがずいぶん続いていました。もちろん、苛酷な状況ですからなかなかコストが合わないというのも仕方がない側面もあるのでしょうが、一方で設計者は、このような過酷な状況も含めて設計の与条件だと捉える必要があるのではないかとも思います。そのような中で、そもそも設計者と施工者が別々に発注される方式自体も見直すべきではないかと、釜石市は官民連携による買取型の事業をスタートさせました。つまり、設計と施工ができる民間の共同企業体(JV)をプロポーザルで選定し、その事業が完成した段階で建物を市が買い取る仕組みです。そこで僕たちは、ダイワハウス工業と組んでプロポーザルに応募し選定され、計画が具体的に動き始めました。いちばん最初の事業は、「釜石市大町復興住宅一号(2016年)」です。通常ハウスメーカーと建築家はあまり仲がよくないというか、ハウスメーカーは「建築家は勝手なことばかりやっている」と思っているかもしれないし、建築家は「プレファブメーカーはつまらないものばかりつくっている」と、そこまではいかないにしても(笑)、通常は一緒に仕事をすることがない間柄です。僕自身としては、今回の復興過程においては、建築界全体がいろんなかたちでお互い知恵を出し合っていかなければだめだろうと思っていたこともあり、ダイワハウス工業と協働することに決めました。
ただ、ハウスメーカーとの協働には、通常の設計以上にいろいろな制約がありました。鉄骨ラーメン構造でつくらなければならなかったり、外壁はALCという具合に、ほとんどの仕様にあまり選択肢はありませんでした。そんな中で、いったいどんな建築的な知恵を提供できるのかということを自分たちなりに深く考えました。そして単純でどこにでもあるような建物でも、その関係性をデザインすることだけで、この釜石の地域やコミュニティにふさわしい復興住宅は10分につくれるはずだと思うに至りました。
この復興住宅の入居対象は高齢者が多く、またたいへん親密なコミュニティを維持してきた人たちも数多くいます。一方で、昔ながらの親密なコミュニティばかりではなく、若い人たちもいますし、あるいは元もと違う地域に住んでいた人たちが一緒に住まなければいけないという状況もあり、この復興住宅ではこのような複雑なコミュニティの様相にも応える必要がありました。
そこで僕たちは、庭先や玄関先のような縁側状の廊下が建物の外周部を回ることで、家から1歩外に出ればすぐにお隣や上下階の人と顔を合わせることができる空間が繋がり、しかもその場所が街の顔になるとよいのではないかと考えました。それと同時にプライバシーが必要だと言う人、新たにこの地域に移り住む人も想定して、共用部分からある程度の距離をとったプライベートな場所も設け、人の集まり方に多様性を持たせることにしました。それぞれの部屋は矩形で、ふたつの個室を対角線上に配置し、残りの部分は中央がくびれて繋がるワンルームのリビングダイニングとなっています。玄関に近い個室は、外周部に回る縁側に直結していて、誰でもお互いに覗いて顔を合わせることのできる部屋となっていて、逆に奥の個室はそれなりにプライバシーが確保された場所となっています。こんな関係を築けば、親密なコミュニティにも、新たにつくられるコミュニティにも10分応えられるだろうと考えました。縁側では、上下階の方とも目線が合うような関係となっています。最上階には誰もが使える集会室があり、ここに来ると、街の様子や海の風景を見渡すことができます。
次に計画した「釜石市天神復興住宅(2016年)」では、縁側状の廊下を上下階で互い違いに巡らせ、高齢者も家の中に引きこもらず、すぐに出てこれるよう南側にも心地よい縁側をつくったり、北側廊下の住戸もつくったりと、多様な住戸を混在させることでコミュニティに応えています。
「釜石市大町復興住宅一号」と「釜石市天神復興住宅」が軌道に乗り、同じ体制でさらにふたつの復興住宅をつくることが決まった頃、たまたま小野田さんと一緒に、街全体に対して何かできることはないか話し合う機会を持つことがありました。そこで、僕たちは今回の復興という大事なプロセスを将来の街にどう残していくべきかを議論しました。自力再建する人たちもいっぱいいて、それぞれが思い思いのかたちで復興しよう、立ち直ろうとしている状況で、市がつくる公営住宅が街の中にいくつか建ち現れることになります。そこで、僕たちはこの復興住宅を、 の色で彩ることを提案しました。はまゆりは釜石市の花で、オレンジからピンクまで、とてもきれいな色調を持っています。その色を基本に、建築に使えそうな色をいくつか抽出し、カラーチャートをつくりました。今後は、必ずしも僕たちが手掛けない公営住宅もたくさんできてきますので、そういう復興公営住宅には、可能であればこのカラーチャートの中からそれぞれの設計者に自由に色を選んでもらう。そうすれば、まるで街にはまゆりの花が咲くように公営住宅が建ち上がっていき、今回の復興の記憶として風景に刻むことができるのではないかと考えたわけです。