アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「開く」という言葉は、最近よく使われていますね。開くこと自体も非常に大事なことだと思いますが、何でもかんでも開かなくてよいとも思っています。どんな街でも、その街にはその街なりの文脈があり、あるいは、その街ならではの文化的な文脈もある中で、それをどう繋いでいくかということの方が、ただただ開くということ以上に意味があると思っています。開くと言った途端、建築の課題設定としては、すごく単純になりすぎてしまって関係性はどうでもよくなってしまうので、なるべく開くという言葉は使わないようにしています。僕自身は街に対して、その地域にある自分なりに見つけた魅力を、どう耕していくとよいかを考えるようにしています。そのためにも、何と何をどう繋ぎ、繋がないか、またその繋ぐためのシナリオを丁寧に紡いでいかなければいけないと思っています。
それは、僕もいつもすごく難しいと感じています。いちばん最初にお話ししたように、家具だったらその集まり方に応じて自由自在に動かすことができますが、建築は一度完成してしまうとなかなか動かせません。そういう中では、集まり方や関係の持ち方に選択肢を用意する方がよいと思っているのです。おっしゃるとおり、平日と週末でも全然違う集まり方となることも考えられます。その時に、その両方でも成り立つ関係のつくり方があるのではないかと思い、あらゆる状況に対応できる場のつくり方を模索しています。
なぜならその本質にはあまり大きな違いはないと直感しているからです。たくさんの人が集まるということも、たったひとりでいるという幸せも、同時に感じられるという状態を建築ならば実現できると信じています。
僕は、医療福祉施設で言うと、小さなクリニックの設計をしたことがあります。もちろん僕は、どんな仕事でも、いつもやってみたいと思っています。また、医療施設でも商業施設でも、どんな施設だろうが基本的には人間が集まる場なので、その本質はあまり変わらないのではないかとも思っています。
「工学院大学125周年記念総合教育棟」では、建物同士の隙間部分が非常に大事だったとお話ししましたが、実は僕が今までやってきた建物の大部分が、建物のオブジェクトを設計するというよりは、どちらかというと隙間をどうデザインするかに主眼がありました。隙間をどうつくるかということは、人と人の関係性や距離感に大きく関わります。それに関連してもうひとつ思うのは、都市空間はどこまでも歩いていくことのできる開放系の空間ですが、それに比べると建築は、本来的には閉鎖系の空間です。その閉鎖系の建築を可能な限り都市空間のように開放系の空間にしたいという想いが強く、それが隙間をどうつくるかという思考へと通じているように思います。
つまり、簡単に言うと、僕はいつも行き止まりのない建築をつくろうとしているのだと思います。「工学院大学125周年記念総合教育棟」や「日本盲導犬総合センター(2006年)」などがそうですが、行き止まりがなく、どこまでも歩いていけることを大事にしています。おそらく、それは医療福祉施設の設計にも通じるのではないかと思っています。僕は5年ほど前に大怪我をして、3ヵ月入院していました。その後、リハビリ生活を続けていたのですが、その時に歩き回れるということは本当に重要だと身をもって実感しました。病院ですと、管理などの問題で難しい側面もありますが、むしろ病院みたいな場所でこそ、そういった歩き回れる空間をどんどんつくることをやっていくべきなのではないかと思います。
僕は、「集まることをデザインする」ということは、一方で、「ちゃんとひとりでいられる場所もつくる」ということとも同義だと考えています。いつもみんなで集まっている必要はなく、たとえば、街中でひとりカフェでお茶を飲み、街の雑踏を見ながら自分だけの時間を持つ、ということも実は大切な公共空間の姿です。それらは、一見矛盾しているように感じますが、同じことだと僕自身は思っています。
それに対しては、先ほどお話ししたように、なるべく行き止まりのない空間をつくることで、たとえばひとりでいることも、大勢の人が一緒にいることも同時に実現できるような空間がつくれるのではないかと考えています。もちろん、でき上がってみると実際にはみんなそれぞれに違う使い方をしますから、僕が想像していたとおりにいかないこともありますが、そういった建築と人とのある種の対話みたいなものを重ねていくことで、またそこに新たな発見があったりするのです。ですから、これからもそういった試みをずっと重ねていくしかないと思っています。