アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
東日本大震災とその前後に意識していたことは、今自分が考えていることに少なからず影響を与えていると感じています。震災当日は、超高層ビルの上階で打ち合わせをしていました。大きな揺れがとても長く続き、一緒にいた構造のエンジニアが途中から「これはまずいな」と言い始めたので、すごく不安になったことを覚えています。その経験から、今自分がいる場所からどうすれば避難ができるか、まったく可視化されていない超高層ビルという建築が、地震の多い日本にはたして向いているのだろうか、そもそも建築のあり方に問題はないのだろうかということに思い至りました。その後程なくして、もっととんでもないことが東北で起こっているということが分かりました。その状況に対して何かできることはないかと思っていたところ、たまたま伊東豊雄さんが声をかけてくださって、同世代の藤本壮介さん、乾久美子さんと一緒に、岩手県の陸前高田市という甚大な津波被害を受けた場所に「陸前高田の『みんなの家』(2012年)」というコミュニティ施設をつくりました。そこでの過程を、第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で展示し、金獅子賞をいただいたりしたのですが、それらの経験から建築とはいったい何なのだろうか、と根本的に考え直す機会を得ることができました。
「陸前高田の『みんなの家』」北側崖地から見る。奥には津波で流された陸前高田の平地が見える
「陸前高田の『みんなの家』」1階居室。さまざまな太さのスギの丸太柱がランダムに入り込む
まず、自分が住んでいる場所や隣人について全然知らないということに気が付きました。これまで東京は、あまり近所付き合いもなく生きていける非常に気楽で自由な場所で、そこが魅力だと感じていましたが、もし仮に何か本当に困ったことが起こった時、身近に知っている人が誰もいないという場所ではいったいどうなってしまうのだろうかと不安になりました。コミュニティや地域社会は、元気で何の問題もない時にはそれほど必要なく感じますが、実は困った時にどうするかということがいちばんのテーマなのです。「陸前高田の『みんなの家』」をつくる時に、現地の人たちと協働したのですが、彼らの考えていることは非常に面白く根本的で、建築家よりも建築的に物事を考えている人がいたりして、かなりショックを受けました。陸前高田市では、街が津波で流されてしまい中学校の体育館に何百人もの人が避難しました。市内のさまざまなところからバラバラに集まったお互いに知らない人同士が、狭い体育館の中でぎゅうぎゅう詰めになって大変だったようなのですが、しばらくみんなでお互い励まし合っているうちに仲よくなっていったそうです。しかし、せっかく仲よくなったところに、仮設住宅が完成してまたバラバラになり、さらにその後、仮設住宅から本設の住宅へ移動してまたバラバラになるという、高齢の住人もたくさんいる状況下で過酷なことが2回も起こることになる。そのバラバラになった人たちが、もう一度集まれる場所が体育館のそばにほしいんだという話をもらった時、建築というのは、どこに、誰が、どういう状況で集まり、どういう風に使うかという話から立ち上がってくるもので、それが建築の原型なのだと感じました。僕らは普通のプロジェクトでは、要件としてこの部屋が何平方メートルで、こういう機能が必要で......というように詳細なプログラムをいただいて設計をしているので、元もと何をつくるかというのは明らかで、それを翻訳するのが建築家の仕事だと考えがちです。しかし、本当はそうではなく、誰のための建築なのか、どんな建築を必要としているのかということと、建築の設計が一緒に起こるのが本来の原型的な建築なのではないかと思いましたが、それが一体どこに繋がっていくのか、すぐには答えが見つからないままその後も仕事をしながら考えていくことになりました。
「陸前高田の『みんなの家』」バルコニー。さまざまな高さに居場所があり、多方面を眺められる
「陸前高田の『みんなの家』」+ GL1,000 平面
「陸前高田の『みんなの家』」断面