アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私の設計した住宅は、結果的に内部はボイド、つまり「がらんどう」でした。外は非常にオブジェクティブではないかと批判を受けても、住まい手の人生のプロセスを引き受ける中でつくっていこうと提案し、積極的に建築をボイド化してきました。湘南台文化センターのプランも、装置としての小屋根がたくさんついているのに、プランを見るとがらんどうです。インテリアをできるだけ活動のプロセスに合わせられるようにフレキシビリティーをもたせようと、いつも考えています。何もない空間ではなく、何もなく見えるそこに新しい活動の可能性を立ち上げられる空間をつくっておこうということです。
多くの人たちは素晴らしい生活者としての意見をもっています。住民はそれぞれに専門家です。私たちや行政が考える以上のソフトやプログラムも考えつきます。そうしたものが設計のとき十分にフィニッシュできるとは限りません。特に日本の社会は次々に変化していて常にアンフィニッシュの雰囲気にある中で、ここではこういう活動をする場所という具合に活動を固定してしまうことは、時間の流れに対応できないように感じます。アジアの国では社会の変化はたいへん激しいもので、それだけ積極的な活動もあります。
私は住宅でのがらんどうを公共建築の内側に求められず外側に求めて、湘南台文化センターでは、グラウンドレベルのところを原っぱのようにつくりたいと考え、そこを原っぱ空間と考えました。「すみだ生涯学習センター」でも、人が歩いていく横町のような広場をつくりました。 私は公共建築では、行政が何をつくるかについて長いディスカッションを続けていく中で、それについて足りないものを外側に求め、原っぱのような空間を立ち上げる、そういうつくり方をしてきました。
私は田舎で育ちました。家族で出かけ、川辺でテントを張ってピクニックをしたり、海に船釣りに出かけたりして過ごしました。そうした場所は、かつてはそれほどコントロールされていない自由空間でした。たくさんフリースペースがあって、それを公共空間のように感じてきたし、道具をもっていけば何か立ち上がる、そういう原っぱだったという気がします。ところが最近は、そうした場所は公共の管理によって自由に使えず、許可を得ないと入れないイメージが強いのです。
どのようにして自由に使える場所を残していくかも、私の公共建築の中の一つのテーマです。ディスカッションで次々に出てくる意見を、できるだけ単純空間をもって生活の多様なシステムの複雑さを引き受ける場をつくることを、「がらんどう」で提案してきました。それを内側につくろうとするとコンペの面積違反になってしまうため、外側にどれぐらい確保できるかに挑戦しているように思います。その代表が新潟市民芸術文化会館の浮島システムです。