アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
さて、建築は謎だらけのものだと思います。どのようにすれば、魅力的で、生き生きとし、また美しくなるのか、なかなか判明しません。それでも謎にできるだけ迫るための手がかりとして、建築を「毒」のようなものとして捉えるのはどうだろうか、と思っています。
「毒」は生物の機能障害を起こす、もしくは生物を死に至らしめるものですから、何やら物騒ないい方です。しかも、通常、建築は「薬」のようなものとして考えられている場合が多いわけですから、それを「毒」と形容するのはおかしなことなのかもしれません。しかし考えてみれば、「毒」と「薬」というものは、非常に微妙な関係にあります。摂取量やタイミングなどによって、「毒」が「薬」になったり、「薬」が「毒」になったりします。つまり「毒」と「薬」は対立する概念なのではなく、「毒」と「薬」というものはその作用が連続的につながっているのです。
建築を考えてみても、「薬」として構想された建築だってその効用の賞味期限が過ぎてしまえば「毒」として扱われたりしかねないわけです。街を歩いているとそのような扱いを受けているようなものが目にとまる場合もあります。このように、「毒」と「薬」というものの間には微妙な差しかありません。
ただ、「毒」と「薬」には紛れのない違いがあります。「毒」は意図的に摂取しないものですが、「薬」は意図的に摂取します。いい換えれば、摂取することに受動的なのか、能動的なのか、そこが違うわけです。私はこの「毒」の「受動性」に興味があります。
つまり、「建築を『毒』のようなものとして捉えたい」とはいっても、何かを「悪化させる」ものをつくりたいということなのではなくて、「ふいに摂取してしまったものが、影響を及ぼしてしまう」、そのようなものをつくりたいのだということです。何に影響を及ぼしたいのか、おそらくそれは建築の周辺に広がる環境や、それを利用する人でしょう。私は、建築によってあからさまな変化を及ぼしたいのではなく、気がついたら何か変わっていた、というくらいの存在になるように繊細に建築をつくりたいのです。
さて、どうしてこうした考えをするようになったのか。事務所設立以降、商業施設の外装や内装の設計の依頼が続きましたが、そうしたものの設計は極論をいってしまえば倫理性などほとんどありません。周辺や環境に配慮する視点はほとんどなく、ただただ、自らを顕示することに力を注ぐような世界です。また、設計のプロセス上、構造とは関係のないところで成立させなければならないからか、建築的な一貫性などもおかまいなしの世界です。
こうした世界でまじめに設計をしても、「建築風」というスタイルにしかならないことに、やがて私は気づきました。そう見られるものをつくることほど、悲しく、情けないことはありません。ということで、あえてこういういい方をしますが、まじめに設計することをやめることにしました。
そのかわりに、商業の世界に見られる自己中心性を装いながら、しかし陰では、建築的倫理性を、こっそりと、ひそやかに、「毒」のように盛り込んで、ぱっと見た時には商業的にしか見えないけれど、あとからじわじわと建築の意味が浮かび上がるようなものをつくろうと思いました。商業と建築という、なかなか交わることのない、ふたつの世界を、何とか重ね合わせようとしたわけです。