アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
新幹線の駅前につくったモニュメントです。当時は、商業施設の設計ばかりが続いていたので、依頼をもらった時は非常に嬉しくふたつ返事でお受けしました。
敷地に行ってみると、民家のまばらな田んぼの中に、田んぼとまったく関係のない雰囲気をもつ駅舎がつくられている風景が目の前に広がっていました。駅舎の大きさといい、デザインといい、周辺の風景とのかかわりを見つけることが非常に難しいものでした。将来的な駅前開発を想定してデザインされたものだったのですが、その開発に目途がたっておらず、いつこの駅舎に相応しい街並みが現れるかはまったく不明でした。すると、風景の中で浮きながら存在している状態が、かなり長い間続くことが予想されました。そんな駅舎に寄り添うモニュメントですから、駅舎と一体となって、風景の中で浮いてしまうことが予想されました。非常に悩みました。
結果できたのはこういうものです。家の形をしています。それにたくさんの正方形の穴をあけています。穴の大きさは大小さまざまです。人の視力には限界があり、たとえば日本人だと目のよい人でも2.0程度ですから、このモニュメントを遠くから見ると大きな穴しか見えません。すると、家の形に窓がある、そうした程度のものにしか見えません。後ろに駅舎は控えているけれど、その姿はまるでモニュメントらしくなくて、ただの民家のようなものでしかない。誰もモニュメントだと思って見ないわけです。しかし、モニュメントに近づくにつれて小さな穴も見えてきます。見ることのできる穴の数がどんどん増えます。すると、民家ではなくて家の抜け殻のような、不思議な透明感のあるものになっていくのです。
そして中に入ると、晴れた日には中には木漏れ日のような光がたくさん落ちていて、穴の向こうには周辺の風景が見えています。正方形の穴の大きさはさまざまですから、そこか見える風景は断片的になります。目の錯覚が起きるのか、それらが一連の風景であるようにはとても見えません。そうした断片化は、時にはめ込まれた鏡によってより強調されているようにも思えます。
こうしたものがモニュメントといってよいのかどうか、正直いってわかりません。実際はタクシーやバスを待つ人びとのあずまやとして親しまれているようです。ただ、モニュメントというものはまさに見る対象ですから、どこからどう見られるか、それを考えることは大切なことだと思っていました。田園風景が広がるような場所で派手なものをつくることは、いってみればパチンコ屋の看板をつくる行為とあまり変わりません。それはさすがに嫌でした。ですから、派手なものではなくて、遠くから見たら何でもないものが、近づくにつれて何でもなくないものに変化していくような、繊細なものをつくろうとしたのです。モニュメントをモニュメントとして直接つくるのではなく、気づいたら「いつのまにか」モニュメントに「なっている」ような、そうした出現の仕方をするものにしたかったわけです。そのくらい弱いあり方が、むしろ周辺の田園風景にフィットすると思いました。このようにして、内装の設計から導き出された「いつのまにか」という考えを、建築というか、立体に適用してみたわけです。