アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私の若い頃は、経験などなくてもやれる、と思っていたところがありますが、今はむしろ、経験は大事だと考えるようになりました。年齢と共に考え方も変化してきているように思います。また、昔よりも今の方が、建築がすべてプロ大工とのような完成品として捉えられ、均質な性能を求められるようになってきた、という印象があります。しかし、そういうパーフェクトな建物は必ずしもローカルな環境に対して合っていなかったりしますし、大きく見ると環境に対して負荷がかかってしまっているのではないかと思います。
若い頃は、無茶やひたむきさというような、ひとつのものに対する尋常ならざるこだわりがあったように思います。機能ひとつとっても、機能ということを極端に推し進めていって、その理屈だけで建築をつくってしまうというような、極端さや先鋭的なところがありました。今でも機能という側面は重視していますが、むしろ、機能ひとつひとつがどうこうというよりも、人間の場所をつくるという気持ちが強くなっているように思います。機能が変わってもなお残るものや、機能が何であっても人がそこにいたくなる居場所をどうつくるか、ということが大きなテーマのひとつになってきている気がしています。
素材としていちばん重要なのは、まず構造だと考えています。木造かコンクリート造か、鉄骨造かは、建築の空間のありようを大きく左右するからです。構造は、縦も音を支える堅牢性、安定性だけに関係することではなくて、空間の雰囲気を決定する素材として、いちばん大きなものではないかと思います。
世界中の街を訪れると、石の街だったり、木造の街だったりと、さまざまですが、そういう街を見ていると、素材の重量感が街の雰囲気を決定しているなと感じます。素材の重みや雰囲気というものは、素材の表層の表面の見えがかりよりも、人間に与える影響が大きいのではないかと感じています。
若い頃は、キリキリのスケールの連続でどう空間を組み立てていくかを意識的に行っていました。クライアントとの対話の中で、「ここを少し変えたい」「このふたつの機能は一緒にしよう」といったコメントをいただくと、自分たちが組み立ててきた建築の根拠が一気に変わってしまったように受け取って、案をすべて捨ててゼロからやり直したりしていました。当時を思い出すととても緊迫したつくり方をしていたなと思います。ある時から、海外で仕事をするようになって、西洋だとそもそも人間の体の大きさが違うので、細かな寸法の根拠がずいぶん違ったものになってしまい、そういった中で、あまり細かい寸法には固執せず、もう少しおおらかなつくり方へと変化してきました。
スケール感がうまくいくと、建築もよいものになるような気がします。ただ、体に完全にフィットすればよいかというと、それはそれで鬱陶しく窮屈に感じる場合もあるし、身体スケールを超えた大きな空間でも、心地よく感じることがあります。人間のスケール感覚というのは、体のサイズに合うかどうかとはまた別のところにあるように思います。また、個々の寸法も重要ですが、建築各部の調和のリズムや秩序のようなものが、建築にとって重要なことのような気がします。
篠原一男さん(1925〜2006年)は、事務所を持たずに自分の大学の研究室で仕事をされていました。妹島さんは、大学院生時代に篠原さんの研究室へ行きたいと思っていましたが、富永譲さんにやめた方がよいと言われ、結局行きませんでした。その理由は、20代の頃は大学に残るのではなく、設計事務所で実務を学ぶべきだからということでした。
アトリエ事務所でも組織設計事務所でもどちらでもよいですが、富永先生は「20代という若さでなければ学べない建築の組み立てがあると僕は思う」とおっしゃっていました。そういう意味で、若い時にあまり長く大学にいるのはどうなのか、とおっしゃったのです。私は富永先生ほど自身がないので、学生の方にそういった質問をされると必ず「富永先生はこうおっしゃいました」と言ってしまうのですが、私が学生時代の頃から比べて社会背景もずいぶん変わっていると思いますが、若い頃からものを触ってどう組み立てるべきかを考えることは、やはり重要だと思います。
私が想像するに、建築の組み立て方というものは、実務を通して学ぶところがあるからではないかと思います。たとえば、雑誌で見て菊竹清訓(1928〜2011年)さんはすごいなと思ったとしても、実際に菊竹さんの事務所に入って学ばなければ、彼の空間や建築の組み立て方は学べないということです。建築の組み立て方を学ぶということは、とても具体的なことを学ぶということでもあると思いますし、同時に抽象化の過程を学ぶことでもあって、やはり建築家の思想そのものでもあると思います。富永さんはそういうところを20代で学ぶべきだとおっしゃったのではないでしょうか。建築の具体化と抽象化の両方が同時に起きる場面としての実務があって、それを若いうちに経験しておくべきと考えられたのではないかと思います。
私は富永先生ほど自信がないので、学生の方にそういった質問されると必ず「富永先生はこうおっしゃいました」と言ってしまうのですが、私が学生時代の頃から比べて社会背景もずいぶん変わっていると思いますが、若い頃からものを触ってどう組み立てるべきかを考えることは、やはり重要だと思います。