アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
きょうは花金のところをこんなにたくさんお集まりいただいてありがとうございます。実は、ぼくの生まれて初めてのレクチュアというのは、工−ル大学に留学していたときにやりました。ヴィンセント・スカリーという歴史の先生が皆んなにアナウンスしてくれてさせてもらったんです。きょうはこんなにたくさんのお客様で、まるで夢のようなんですが、そのときの聴衆はたった一人だったんです。イランの女性だったんですが……。
ぼくのこれまで建築をやってきた方法について考えてみますと、ちょうど卒論が終わって最初に設計をやり始めたころは、吉武泰水先生の研究室にいたんです、大学院生として。いま考えても吉武先生は非常にさえていらっしやると思うのですが、ぼくの方法に対して、直線的な発展じやなくて、円環的な、あるいはスパイラルな発展になっているといわれた。だからやり出すと、そのプロセスでいろいろ誤解を受けるだろうが、それは覚悟してやるようにという忠告をいまから二○年ぐらい前にもらいました。これは、いまになって振り返ってみると、なかなかよくごらんになっていられたなぁと思います。現在でも、ぼくの作品は次に出てくるものがなかなか予測しにくいといわれます。それは、おそらく直線的な段階で考えていくと予測しにくいんだと思いますが、それが円を描いて一周を閉じるまでは誤解を受けるというプロセスなんだろうと思います。ただ円を描くというのは、ゴルフのグリーン上の下り斜面のスライスのパットのようなもので、どこへ落ちていくか読みにくいという面があります。しかしぼくはそこを一生懸命読んでいるつもりなんです。そういう風に円周をたどってきて、最近ようやくひとつの円弧が閉じて一周通り過ぎたような感じがしています。だから、自分にとっての建築の字引きをまとめているという感じで、目下、本をまとめているところです。 きょうは、そのへんのところでお話しさせていただきます。
ぼくが吉武研にいたころというのは、状況としてはおもしろい状況だったと思います。ちょうどそのころ、丹下研究室系の方というのは東大の建築学科にはいなくなってしまった時代だったんです。吉武先生が計画の先生として残っておられましたが、いわゆる設計をしたい人間も吉武研にいったという時代だったわけです。いまは槇先生や香山先生がいらっしやいますけれども。吉武先生の方法というのは、まずデザインを売るというか、きれいなデザインのものをつくってお金を得るということに対する抵抗感が先生の中にありました。もう一つ、ドグマはいけない、個人でひとりよがりというか、ちょっとむずかしいことをいって、検証もできなければ根拠もないというようなドグマでもって、まちづくりや建築の話をするのはよくないというようなことを、吉武先生はつねづねおっしやっておられました。ですから、そんなことを考えながらデザインするというのは、なかなかむずかしいことでした。そこで一番かたい手掛かりというのは、建築の「部分」ではないかと考えたんですね。建築の全体をどういう風に考えたらいいのかということはまだわからないけれど、たとえば階段であるとか、屋根、柱、窓といったひとつひとつのものを検証していくということは、どの時代でも変わらないはずだと考えて、それでひとつひとつやっていったんです。これは、自分が自分を教育するためにたどってきた道なんです。
自分の考えていることを整理するという意味の他に、おそらく、設計を志す人間にとって、何らかの役に立つマニュアルというか辞書というか、そういうものになるように、いままとめています。建築の「部分」を窓とか屋根とか一二の章に分けて、最後のまとめにかかっているとこです。その一二の章立てにしたがってスライドをしながらお話しをすすめます。