アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
最後は橋です。右と左をつなぐとか、土木であって建築であるものとか、いろいろな意味があるものです。
芸能プロダクションの田辺工ージェンシーの建物です。サングラスをかけて街を歩いている若者をスターにする。その橋渡しの役目をするプロダクションの建物ということで、橋をイメージしてつくっています。橋桁部分を内部から見ると、まるでくもの巣みたいに見えますが、これは田辺さんがもとスパイダースのメンバーであったので、これも田辺さんを表しているわけです。この建物はいままた話がありまして、隣の土地を手に入れて、そこにも建てて、巨大な橋にしたいという構想が生まれつつあります。
アメリカの非常に大きな魅力のひとつは、橋が街の中に入ってきていることだと思います。たとえばニューョークのクイーンズボロブリッジは塔の部分が十数階分の高さがあるんです。西海岸ではゴールデンゲートブリッジが圧倒的に有名です。このふたつの橋をつけて、アメリカ人というか外国人向けの賃貸住宅をつくりました。「バイコースタルハウス」です。ニューョークから来た人にもサンフランシスコから来た人にも喜ばれるわけです(笑)。いまはまだ何とか外国人も経済力を持っていて、こういうマンションなども需要があるんですが、そのうち日本の物価高と外国人の経済力の低下などで外国人が日本にいられなくなった状況でも、マンションとして競争力を持つためには、外国人がそこをいかにアットホームに感じてくれるかということが大きいと思います。そして話題性もあるわけですから、この建物は成功です(笑)。橋をつくることで余計にかかったコストというのはほんのわずかなものです。本当は真ん中のところに、セントルイスにあるサーリネンのジェファーソン・メモリアルアーチをつけたかったんですが、あれはいまマクドナルドのシンボルになってしまっているので、ちょっとまずいんじゃないかということで、そこにはローマの水道橋がついています。
アメリカの東海岸の橋と西海岸の橋を両方持っている。アメリカはこの両岸(バイコースト)を持っているというのが大きな特徴なんです。ソ連も中国も片方は山になっていて持っていないんです。バイコーストがアメリカの明るさのもとだと思います。そのアメリカが東京の西麻布に突然出現したわけです。周囲にはまだ和風の家も残っています。日本は大した国だなあと思うのはこういうときです。こんなことをやって、もう駄目かなと思うんですが、その光景も三日もたつと普通の景色になる。子供たちもしばらくはお母さんあれなあになんていっているんですが、すぐに見慣れてしまう。やはりものすごい数奇屋の国だと思います。
しかし、東京も名古屋もそうでしょうが、第二次大戦で爆撃を受けたあと、急造の街づくりで、とにかくつくることだけでそれ以外のことを考えないでつくっていってしまった街になっている。ぼくたちはそれをやはりなんとかしていかなくてはならないと思うわけです。やはりひとつひとつの建物がしっかりと主張していくべきですね。
最後の作品になりますが、「同世代の橋」という建物です。上から順に、相田武文さんと安藤忠雄さん、次が石山修武さんと伊東豊雄さん、そして長谷川逸子さん、象設計集団と高松伸さん、それからここにお母さんの部屋があるので、その部分に毛網毅贖さんと、その横に私の「械の窓」がついています。下のほうで六角鬼丈さんの木の根っこと渡辺豊和さんのオッパイ、そしてYASの木島安史さんがついています。もう一人、葉祥栄さんが途中についています。
いま、皆んながそれぞれのことを主張して、それらが集合して都市になっていくだろうという楽観論は、きわめて日本的で大変結構なことだと思っております。いままで、理想都市についていろいろいわれてきましたけれど、いまの建築家がいっていることを集めた以外に理想都市はあり得ないわけです。そこでそういう理想都市をつくってみようとした結果が、この作品なんですね(笑)。これが現代において避けようのない理想都市であるということを、よくよく考えて二十一世紀に入っていく必要があると思います。そうしたことをこの作品で充分に学習させてもらいました。
ここでは一三人が皆んな仲良く同居しています。そのインフラストラクチュアが橋なんです。その中で楽しく和気あいあいに主張し合ってるわけです。東京という大都市の現実ですね。この経済が繁栄する中で、一体なにをつくっていけばいいのかということが、こうしたセミナーやシンポジウムの本当の目的だろうと思います。たとえばパリは大改革をやってシャンゼリゼの大通りなんかをつくってきている。しかし東京ではあんなものをつくる必要はないんだと思います。かといって、ニューヨークのマンハッタンのような超高層の林立する街をつくることでもないと思うんです。もっと東京的なものをつくり続けていくことですね。そんなことを考えながらこの「同世代の橋」をつくっています。
作家の特権として、自分の作品だけは比較的目立つ位置にありますが、間題が起こってはいけないので、それ以外の方は皆んな上からアイウエオ順に並んでおります(笑)。それぞれにその建築家の持ち味が出てくるもので、たとえば伊東さんのは病的に健康的です。石山さんはふたつの顔を持っていて、片方は出歯亀みたいに風呂場をのぞき込んでいます。一階は飲み屋さんです。こういうものが平面的になって立体化していくのが東京の街なんだろうと思います。
ここに二枚の絵があります。一つはベン・シャーンの作品で、もう一つはフアサネラの作品です。この二枚が表しているのはペシミズムとオプチミズムだと思います。近代の文化というものに対して、それを皮肉にとらえていくと、定規を使って街を描かない、俺はあくまでも手で描く、しかし生活そのものに対しては、稚拙でも幼なくてもいいから、ある楽観性というか楽しさを期待していないと、ペシミズムそのものだけになってしまう。たとえば、ベン・シャーンの絵というのは、実際のニューョークの写真やなにかより、もっと死んだ街という感じがしてきます。これは窓が黒くつぶされていることによります。
窓が黒く塗られているだけでかえってものすごく恐ろしい形相になっているわけです。近代化に対抗して闘って挫折した人間というのはもっとこわいことになるぞということをべン・シャーンの絵は示しているんですね。これに対して、ファサネラの絵は窓が表すことのできる生活というものを全部表しているんです。いろんな人がいろんなことをいってるし、いろんなカーテンがかかっているし、建物は普通の建物で、そこに突然クインズボローブリッジがボーンと入ってきている。そういうことすべてが描かれているわけですが、ズーッと遠くの窓まであって、隣りはなにをする人ぞという感じが生きている。こうした集積で絵ができている。そしてなおかつ部分が部分としても生きている。この全体としての生かし方には、いろんな生かし方があって、それでいいんだ、と思います。
どうも長時間、ありがとうございました。(拍手)