アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
実は、選ぶ対象というのは千差万別、目茶苦茶にあるわけで、僕自身がもう一度清水なら清水をモチーフにしたら、全く違うことをやるだろう、やれるだろうと思います。ある共通の歴史というものが存在しているから、そこに何かある共通の方法というか、規範といったものが成立することはないだろう。本当はあって欲しいけれども、ないだろうと思います。少なくともいまの時代にはない。いまの時代といっても、あくまでもモダンの時代の延長ですから、意匠とかデザインという行為が個人に委ねられているという時代としては変わりがない。ということは、誰がどういうデザインをしても、昔のたとえば書院造りといった、共通のキーワードはいまはなくて、皆んながやりたいデザインをやっている。そういうことに対する、本当にそれでいいのかなという気持も若干ありまして、同世代の橋なんて作品が生まれているわけです。意匠が各個人に任されているのと同じように、ピックアップしてくるものも、まったく個人に任されている。なにを選択してよくて、なにを選択したからよくないという判別はないんです。いずれにしても、こうしたことが目につくところに出てくることがおもしろいわけです。それがその人の毎日の暮らしなんだと考えれば、それでいいんじゃないかということです。
ぼくの仕事の場合は住宅にしても役場や学校にしても小さなもので、それぞれの当事者が納得すればいいんですが、ご質問のように、明治村とかいうことになってきますと、こういう話も、控え目に発言しながら、どこまでやれるかということで、それがいまの時代の歴史に対して個人が直面して置かれている問題だろうと思います。デザインするものとしてピックアップしてくるものとして、そのピックアップの行為そのものが、個人として問われていることでもあろうと思います。磯崎さんが引用されるのと少し違うところがあるとすれば、ぼくのほうは偉い建物に頭にきて、みじめな自分の手元に引き寄せて身近なものにしたいと思っている性格が強いということでしょうか。名物の所有の民主化とでもいったらいいんでしょうか。歴史家の方とぼくとでは、明日という壁を上からふ観して行途を見ているのが歴史家で、ゴリゴリ掘っているのが設計家じゃないでしょうか。保存のための保存でいえば、保存の一番すごいのが伊勢神宮の式年造替と宝物のつくり替えでしょうね。全く寸分たがわずつくり、しかもそのつどつくり手の待徴が出るんですね。あれを一方でしながら、一方で創作ができるという放れ業ができたら本当にすばらしいでしょうね。
ジャイロ・ルーフは漏りませんねえ。瓦屋さんの建物ですから(笑)。直島小学校は、コンクリート打ち放しで、そのコンクリートを四国から運んできているのですが、コンクリートを打つまでに多少硬化が始まっていたために、あの建物はかなり雨漏りで苦しめられましたネ。本当は漏らしちゃいけないんですが、いままで予算がきぴしくて、小さい工務店に頼まざるを得なくなって、しかしそれでも『新建築』とかの雑誌に出してもらえるだけの作品にしなくちゃならないというようなことで無理をすると、やっぱり雨は多少漏りますね(笑)。