アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私は、岩手県全体の震災復興のアドバイスをすると同時に、個別の自治体では、朝の連続テレビドラマの舞台になった小袖海岸がある久慈市の隣の野田村と、先ほど少し触れた大槌町と、陸前高田市に通っています。野田村とは、ほとんど友達付き合いのようなかたちでの関わりが続いています。
野田村は、人口が4,300人くらいのそれほど大きくない街です。大槌町の3分の1くらいです。東日本大震災で、野田村にも、おそらく15メートルくらいの津波が襲ってきました。亡くなられた方は37名なのですが、それに比べて被災戸数が非常に大きく、村の3分の1にあたる500世帯の家屋が倒壊してしまいました。
被災から1年ほど経った2012年5月、毎日新聞の一面に、野田村が見開きぶちぬきで扱われました。三陸でいちばん復興が早かったからなのです。自治体ごとにそれぞれ事情が違いますけど、これは、村長である小田裕士さんのリーダーシップが大きいと思います。彼は被災された村の人たちから非常に強い信頼を得ていて、その強い絆から生まれた村のコミュニティの結束力が素晴らしいのです。それで、復興が非常に早い。この小田さんと私が、わりと話が合うこともあり、野田村の復興のお手伝いをしています。小田さんはまだ50代で、私よりも5、6歳若いのですが、昔は柔道をやっていて、町の職員から村長になった方です。小田さんは、決断力に優れた、県でも有名な喧嘩村長です。大臣が来ても、知事が来ても、頑として村民の立場から喧嘩を売る、ということで有名なのです。だから、村民の信頼がものすごく厚い。私はやっぱりこれが重要だと思うのですね。偉いやつが来ようが誰が来ようが、自分が何を言うべきかをちゃんと分かっている人間、これがリーダーになるべき人間だと思います。他の自治体は残念ながらそうじゃないのです。それぞれ事情も違いますけど、とかく「いやあ国土交通省はこう言ってるから」「復興庁はこう言ってるから」「県はこう言ってるから」と、一方的な復興計画を受け入れてきてこの体たらく、という感じが否めません。
陸前高田の一本松が有名ですが、実は野田村にも非常に立派な松原があって、津波で全部やられてしまいました。小田さんは面白い人で、こんな深刻な状況下でも冗談を飛ばして人を笑わせる方で、「陸前高田は一本だけ残ったからよいのだけど、うちは八本も残ったから話題にもならない」という話をしていました(笑)
。野田村の復興計画の特徴は、三線堤をつくったことです。海岸に沿って一線堤をつくり、その内側に鉄道と国道が走ります。そのさらに内側に計画されたのが三線堤です。あまり高い堤防ではないんですけど、この三線堤の計画ラインを引いたことが、野田村にとっていちばん大きなことなのです。小田さんが言うには、実は、これまでも津波が来て野田村は被害を受けていたのだけど、しばらくすると皆忘れて海側に住んでしまうらしいのです。だから、どうしても海側に人が住めない所をつくりたい、ということが小田さんの信念であり、この一本の線を引くのが常に大変だったらしいのです。それは、この線を境にして、両側で土地の権利の条件がまったく異なってしまうからなのです。その上で土地を切り分けて線を引くのは、彼でなければできなかったことでしょう。他の自治体にはそれができていないので、非常に曖昧になっています。これでは100年後にまた同じことが起きます。
また、野田村の市街地に、城内地区といういちばん大規模な造成による高台移転場所があります。普通は山を切り開いて真っ平らにして、その上に造成地をつくるのですが、ここでは、できるだけ元の地形を残しましょうと提案し、当時コンサルタントをされていた市浦ハウジング&プランニングの仁科さんと苦労して話し合い、だいぶ柔らかい団地形成ができたと思います。もし野田村の近くに行かれることがあれば、覗いてみてください。それから、米田地区の小さな高台移転にも関わりました。計画の際には小さな公園をつくらなくてはいけないのですが、それを地区内の真ん中につくり、公園を囲むように宅地形成をしましょうと提案して実現したものです。村長の決断があって、まあパーフェクトではないけれど、少しはましなものが実現したと思います。
また、野田村では、まったくのボランタリーでいろんな分野の人を連れて行って、アドバイスをしたり、村長と話をしたりしました。土木の篠原修さん、都市計画家の小出和郎さん、ランドスケープ・アーキテクトの三谷徹さん宮城県庁の土木次長だった井上康志さん、その他にもお願いをすると皆、手弁当で快く付き合ってくれました。ほとんどのことは制度的制約に阻まれて実現化しなかったけれども、三線堤、明内川の修景、他にはない高台造成など、できたことも随分あります。
ここでの問題は、もっと建築家が関わって、もうちょっと頑張ればもっとよい街ができるのに、関与できていないところがまだまだたくさんあるということです。ゼロからつくるのですから、いろいろ考えられますよね。だけど、そこまでとても気が回らないで既存の制度の中でやってしまうと、画一的な町並みができてしまうのです。こういった結果も、ちゃんと評価をして、次に生かしていくべきだと思います。
大槌町の大ヶロ地区の災害公営住宅は、以前国土交通省にいた大水敏弘さんが副町長になって指導したのだと思うんですが、これがなかなかよいのです。真ん中に大きく街路をとって、生活がその街路に溢れてくるよう計画されている。こういうものがたくさんできてくると、少しは救いになるかなと思います。