アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
こういう非常に厳しい現実に向き合っていると、先ほど申し上げたように、「建築家として」という想いと、「人として」という想いとがバラバラになってくる感じがします。ここで、少し明るい話をしたいと思います。
双葉町の警戒区域を訪れた次の日、頼まれていた講演をしたのですが、福島の人たちに私がお伝えできるのは三陸のことですから、三陸の現状をお話しました。その講演会の会場が「福島県教育会館(1956年)」という建物でした。私はこの建物で講演することをまったく知らず、講演の合間にちょっと抜け出して見に行こうと思ってた建物でした。幸運なことに、その建物の中での講演でした。
皆さんも福島に行かれたらご覧になられたらよいと思うんですけども、設計者は前川國男さん率いる設計グループ(ミド同人)とされてますが、実質的には前川さんの事務所のスタッフだった大髙正人さん(1923〜2010年)が設計されたものです。大高さんには、晩年に私もかわいがってもらいました。大髙さんのほとんど処女作に近い建物が、この「福島県教育会館」で、当時大髙さんは30代前半でした。川添登さんの『建築家・人と作品』という著作の中に、大高さんが登場するのですが、大高さんと川添さんが福島駅近くの喫茶店で会って、これから「福島県教育会館」を見に行くという記述があります。大高さんが何故か嬉しそうなので、何でそんなに嬉しそうなのか尋ねると、大高さんは「新妻に会いに行くようなもんだから」というふうに返したというエピソードが書かれています。
大髙さんが本当にそういう気持ちで建物をつくったことが、この建物を訪れると何となく分かりました。それで、私は、実は救われたような気がしたんです。講演でも何を喋ろうか、三陸とは全然違う被災をしている方たちも混じっていて、その人たちに向けて何か言うべき言葉があるだろうかと悩んでいましたが、ああ答えはここにあったんだ、という気持ちになりました。大高さんから、「内藤君、まあ難しいこと抱えていろいろあるだろうけど、これでいいんだよ」と、言われたような気がしたんです。
大髙正人さんは、建築家としては非常に特殊な活動をされた方で、造形的な作品をつくられる方でありながら、建築の作家性みたいなものは脇に置いて、街をどうつくるかとか、暮らしをどうつくるかということに、心を砕いた建築家でした。晩年は故郷である福島県三春町の街づくり、それから、三春町のホールも設計されてます。しかし、全般的に大髙さんの建物は、まあ地味なんです。一貫して今風ではない。ただ、それが大髙さんの思想や生き方みたいなものなのかもしれません。建築作品の中で、人として生きることと、建築家として生きることがあまり乖離していない。その中でもいちばんぴったり一致してるのがこの「福島県教育会館」だと感じていました。この作品が竣工した2年前に、前川さんの「神奈川県立音楽堂(1954年)」ができ、その前の年に丹下さんの「広島ピースセンター(1952〜1955年)」ができました。どちらの建物も、建築が人の希望と本当にぴったり一致していた時代ですよね。「福島県教育会館」も、大髙さんなりのふるさとに対する向き合い方が、非常によく現れた建物です。低層の事務室棟、ホール、階段状の客席のあるオーディトリアムによって構成されるきわめて単純な建物です。オーディトリアムの壁はコンクリートの折板構造で、音響のために壁面に木製の反射板が貼られているだけです。天井は吸音性能のある木毛セメント板の打ち込みのみ、というところも簡素極まりない。
竣工当時の記事を読むと、公共の側も当時はそんなにお金がなかったので、教職員組合の人たちが自らお金を出し合って、建てた建物なのだそうです。おそらく福島も、徹底的に戦争の爆撃でやられ、そんな中で、阿武隈川沿いに教育の拠点施設をつくろうと、皆で協力してつくったのだと思います。
敷地の隣には非常に豊かな阿武隈川があり、その向こうに美しい山並みがある。阿武隈川沿いから見ると、その山並みと建物の屋根の形状が、きれいに一致しているのが分かります。二階のホールからは阿武隈川の素晴らしい景色が眺められる。屋上庭園からも非常に美しい景色が見える。何の飾りもなく、最低限で、あるがまま、みたいなつくり方です。私は、この建物では、人として生きるということと、建築家として生きるということが、まったく無理なく重なり合ってる気がしました。