アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ここからは、私の設計した建物の説明をさせてもらいます。「静岡県草薙総合運動場体育館(2015年3月竣工)」は、私が大学を辞める直前にとったコンペのプロジェクトです。静岡県に草薙総合運動場というところがあり、少し古い世代の方はご存知かと思いますが、ベーブ・ルースと沢村栄治の世紀の対決が行われた球場があります。長嶋茂雄が最終試合をやった場所でもあります。非常に県民から大切にされてる場所で、公園としても素晴らしい。その園内にある老朽化した体育館を建て替えるために、その運動公園の隣の、元もと高校があった敷地を県が買い取って体育館をつくって、草薙総合運動場の一部として一体化させるという内容でした。
私は、ちょうど大学の教員をやめて建築家として専念しようと思ってたところだったので、ぜひともやりたいと考えて応募しました。しかし、なかなかよい案が思い浮かびませんでした。それからしばらくして、正月に飲み物のアルミの蓋を外している時に、この蓋のヒダヒダの部分は全部同じ長さだなと気が付きました。木を主材料にしようと考えていましたが、木はできるだけシンプルに使った方がよい。だとすれば、このヒダを木の柱として考えて展開してみてはどうか。体育館自体はおよそ楕円形の平面になるので、その楕円平面の上にこのヒダを置いたらどんな格好になるかなと考え、蓋の真ん中の丸いところを切り抜いて、ヒダをいじっていたら可能性が見えてきました。抜き取っておいた真ん中の天井部分を、ふたつ折りにして載せてみると、なかなか面白いかたちになりました。それをこの体育館のコンセプト模型としました。構造的にも、きっと問題ないだろうなと予想できました。それは、天井部分をふたつ折りにしたことで、いちばんスパンが飛んでいる所に大きなトラスがかけられるはずだと考えたからです。これを出発点にして、案をつくりました。
構造計画は、構造家の岡村仁さんらと一緒に進めました。大屋根は大体80×60メートルくらいの大スパンになりますから、これは鉄骨トラスでつくり、そのトラスを木の柱で支える構造としました。屋根を支える木の柱は、建物外周にリング状に連なり、内径が長辺方向で約106メートル、短辺方向で約80メートルの無柱空間をつくり出しています。
これが、実に大変なプロジェクトで、うちの事務所もこれまでかと思ったことが二、三度ありました。屋根は鉄骨トラスですから、これ自体はそんなに難しいものではありません。技術的に難度が高いのは、屋根を支える構造の方です。鉄骨の屋根だけで2,500トン近くの重さがあり、その荷重を無理なく下部構造に伝えるために、木架構と下部構造との間に、現場打ち鉄筋コンクリートの水平リングをつくりました。この水平リングは木架構から荷重が伝わって押されますから、外側に膨らもうとするわけです。そのため、あらかじめコンクリート内部に緊張材を通すポストテンション方式によって、少し内側に歪んだ楕円形リングをつくっておいて、鉄骨の屋根を支える仮設のベントを外して木の柱から足場を外し荷重が伝わった時に、構造上正しい位置に戻る、というつくり方をしています。つまり、歪ませながらつくることになりますので、解析も大変面倒でした。この水平リングの下に免震装置を入れています。ですから、免震装置があって、その上に現場打ち鉄筋コンクリートの水平リングがあって、さらにその上に木架構があり、それに鉄筋トラスが載るという、異なる素材と異なる構法が混ざり合った構造となっているため、技術的にも最高難度の建物となっています。
屋根端部には、三次元に変化する一周280メートルのスチールリングがありますが、誤差が5ミリメートル以内という精度で施工されています。テンションをかけて歪ませている水平リングも、短辺方向で内側に10ミリメートルくらい歪み、最終的に木の柱から屋根荷重が伝えられた段階で外側に10ミリメートル程度膨らみ所定の位置に納まる、という具合です。このように、長辺方向が100メートルを超える建物をつくっていながら、精度管理がおおよそ5ミリメートル前後ですべて納まっています。レーザー計測をしながら施工を進めていましたから、毎日現場で「ここで何ミリメートル歪んだ」といったミリメートル単位の話をずっとしていました。施工は鹿島・木内・鈴与特定建設工事共同体ですが、大変よくやってもらったと思っています。今回のプロジェクトを通して、この国の建築技術もまだまだ捨てたものじゃないなと思いました。結果的には、模型よりももっとダイナミックな空間になっていると思います。
木架構には、天竜杉というスギ材を使っています。木で囲まれた空間をつくりたいと思ったのは、おそらく被災地に通っているという気持ちともリンクしている気がします。この「静岡県草薙総合運動場体育館」のコンペに当選したタイミングと、東日本大震災はほぼ同時期でした。だから、震災前後のいろんな想いが、この建物には混ざり込んでいると思います。人の居場所をつくりたいと切に願っていたんだと思うんです。