アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
日本の伝統美を二時間で語ることは無理です。その美学の本質を、現代建築の素材であるコンクリート、鉄、ガラスを使って私がどう表現しているかについてお話ししようと思います。
最近の建築は、西洋のポストモダンであって、日本のポストモダンではない。マイケル・グレイヴスの尻について走っているのが日本の現状だろうと思います。二十一世紀に向かって、そろそろ日本のポストモダンをやって欲しい。明治以降百二十年、日本は西洋を学ぶことを学問としてきました。それも大事なことですが、やはり日本のことも勉強していただきたいと思います。
私は京都生まれの京都育ちです。父がお坊さんでしたので、お説教臭くて申し訳ありません。伝統の話というのは黴臭く面白くなく暗いのですが、みなさんに面白く聞いていただけるように、話をしたいと思っています。
さて、現代建築ですが、きれいにはなったけれども美しくなっていないというのが私の結論です。辞書には「きれい」と「美しい」は同意語とありますが、日本の都市や建築を駄目にしてきた理由の一つはここにあると思います。文学の世界では同意語であっても、建築の世界ではまったく違うのです。しかし、建築の世界でも「きれい」と「美しい」を混同してしまったために、現代のつまらない都市をつくってしまいました。現代都市、例えば東京や大阪や名古屋のビルディング街の絵を描こういいう人はほとんどなく、奈良や京都、あるいは田舎の町けいって絵を描くわけです。どうしてそうなるのかを考えてみてください。
「古くなるほど美しくなる」ということばが日本では失われました。経済の原則からいくと「スクラップ・アンド・ビルド」はいいことなのです。商業建築などは経済の活性化のために建てては潰したほうがいいかも知れませんが、公共建築物や個人の住宅は、十年ぐらいで色が褪せ、ガタガタになったときにお金もないからメンテナンスができないということになったら、たいへん困るわけです。公共建築、あるいは住宅は、古くなるほど美しくなるくらいでないといけません。私は「古びる」は「古美る」と書きたい。利休の茶室は今も古美ながら残っています。小堀遠州の遺宅も未だに京都のど真ん中に美しく残っています。これからも、少なくとも三百年ぐらいは堂々ともつと思います。
先日、新撰組がいた壬生の屯所を見てきました。その前にごく最近解放された武家屋敷がありますが、それも見てきました。九間もあるような長い広縁のところを丸太一本でもたせている。間に柱は一本もありません。あの空間構成は、現代に通じるたいへんモダンで大胆なものです。
鉄筋コンクリートでもたいへんなところを堂々と木造でやってしまう技術。繊細にしてダイナミック、これが日本の美学だと思います。この「繊細」ということばが抜けるといけません。コンクリートと鉄骨のダイナミックなものはたくさんありますが、果たして繊細かというと、そうではありません。
そういう繊細さの原点のようなものが茶室趣味で、その茶室の美学、すなわち簡素美が数寄屋という美学を生んできました。バッキンガムやタジマハールなど世界の名建築は、王侯貴族のものです。それに対して日本の美学のすばらしいのは、貧乏人のための、庶民のための美学を生み出したことです。これが数寄屋の美学です。これは世界に誇れる美学です。ところが今や数寄屋は大金持ちでないとできなくなってしまいました。利休の思想から発した数寄屋の心は、ある特殊な人のためのものではありませんでした。むしろ貧乏人のための美学だったのです。
もう一度、その数寄の美学を取り戻さなければいけません。それが日本のポストモダンだろうと私は思います。今、不景気で、予算がいっぱいあるから好きにやれというような仕事はまずありません。庶民のための美しい建築をどうつくるかについて、いくつかのキーワードを通してこれからお話ししたいと思います。現実の仕事の中でみなさんの役に立つこともあるだろうと思います。富士山は、どこから登っても頂点の美は極められます。今日お話するのは、私の登り方です。どこから登ろうと構わないわけですから、今日の話からヒントを得て、みなさんはみなさんの登り方で挑んでください。