アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
女性がいて男性が引き立つ。男性がいて女性が引き立つ。この二元論が日本の美学の原点です。世阿弥が「せぬところが面白き」といっていますが、これは男女の二者を合体させない間合いが大切であるとし、そしてその間合いが、さらに面白くなければならないとしているのです。
戦時中の映画のワンシーンです。男が出征していきます。戦争でいつ死ぬかわからぬ身であるがゆえ、彼女と契ることなく出ていくわけです。雪の中をひとり歩いていくのですが、フッと振り返ると、彼女がガラス越しにじっと淋しげに見送っているのです。彼は感極まってダーッと走ってきて、最後の接吻をします。その接吻はどんなに引っつこうと思っても、透明なガラスを一枚はさんでいりため、決して引っつくことはない。名場面です。男と女の対比、そして透明なガラスをはさんだ間合い。
では、建築の中に間合いがどう生きていくか。都市における間合いとは何か。
例えば、道路の両サイドに男性的ビルディング、女性的ビルディングがあるとき、道が間合いになります。
世阿弥は自分の能の舞の動から静へ、静から動へ移り変わる一秒か二秒の間合いも心を込めて、油断なく構えて面白くしろといっています。間合いがつまらないようでは名人芸ではないといっています。
尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」の紅梅を女性、白梅を男性として眺めてみてください。紅梅がいかにも色っぽい曲線をもって女性的に表現されているのに対し、白梅の枝はガッガッガッと稲妻のように角張っています。また、紅と白の二元対比でもあるのです。
絵のバックが金と赤と白ですから、祝い事に使われる屏風という一元的な見方をしがちですが、その一元的な裏側に、もう一つの美学を読みとらなければいけません。両方の尉梅をよく見ると、どちらも老木です。「花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌がありますが、老木で花は咲くけれども、実ができない悲しみも表現されています。
そして二本の梅の間に二月の早春の冷たい水が流れています。この川の流れを見ると、とぐろを巻いていて不気味です。人生の不気味性を語っています。人間の人生は、片時もとどまることなく川のように流れているけれども、何が起こるかわからないという不気味性。そういう人生のはかなさみたいなものを描いているのです。光琳自身、大金持ちから無一文になった人です。
この絵の中にはそういう精神的な美学が、つまり喜び事と悲しみ事が二重構造になっているという見方ができます。さらに、この川のうねりから、川は女性を意味していると私は思うのです。『黒の舟唄』にある「男と女の間には深くて暗い川がある」という、そんな意味合いがここに込められているのでしょう。