アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ベネチアは水の都と言われる、運河がはり巡らされたたいへんユニークな都市です。運河は交通のために重要な道です。運河が道で、タクシーがモータボート、バスは水上バスになります。当然、人間が歩く道もあります。ヨーロッパの町並みであれば、建物の部分を黒く塗り、広場や道、人びとが歩いて入ることができる部分を、教会や公共の建物の中も含めて白く塗れば、都市の地図の中に人間がアクセス可能な部分を表示することが可能です。しかし、ベネチアはこういう地図が描けません。もう一色、水の色が必要になります。運河の上は歩くことはできませんが、空間として見えていて視界が確保されていますから、どうしても三色になります。三色目の水があることがベネチアの街を複雑にし、普通なら辻褄の合わないことを起こします。カナル・グランデをはじめとする水の道は干満を繰り返しているので水面が上がったり下がったりし、街全体がひとつながりのものとして同期しているのです。
象設計集団の富田玲子さんは、何年か前に、早稲田大学の学生たちにお風呂の課題を出されました。富田さんは学生たちに「教室で座っている状態で、腰までお湯が張られていると想像して下さい。そうするとお互いに親近感が湧くでしょう?」とおっしやいました。バラバラに座っていても、お湯が張られていると想像しただけで隣の人のことが気になり始めて、自分が動くと波が立って、それが周りに伝わっていくような気がします。ひとつのお湯の水面の中に浸かっていると否応なく私と誰か、その次の誰かとの間にある空間を意識せざるを得なくなります。ベネチアは街中がいわばお湯に浸かっているような場所です。そこに建っている建物はバラバラでありながら、ひとつの水面で満たされ、干潮や満潮になったりすることによってひとつながりのものと感じられます。
私たちは普段、隣の人のことはあまり気にしないようにしています。むしろ気にしないことでお互いが共存しているようなところがあります。エレベータの中や満員電車の中で隣の人との間の空気をお湯のように感じたら、いたたまれなくなってしまいます。お互いがそう考えないようにして、ギュウギュウでも平気でいることは果たしてよいことなのでしょうか。建築がお互いが関係なくバラバラに建っている、つまり、都市というものがお湯に浸かっていない状態でよいのだろうかということが今回の話の伏線になります。