アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
コンペは2001年の1月で、中里合同庁舎のコンペから三週間後です。四年半が経った2005年に完成しました。 中央本線茅野駅のすぐ前の敷地に建つ建物です。西側の商業施設と、東側に新たにつくる文化的施設を一体として活用できるような施設づくりが要求されました。800席と300席の劇場・音楽ホール、美術館、図書館分室、レストランの複合文化施設です。
10年前、「せんだいメディアテーク」でやりたかつたことをここでいくつか実現したいと思いました。
複合文化施設ではそれぞれの機能を分けて考えるとそれぞれの面積は限られてしまうので、できるだけごちやまぜにして共有できる部分をつくりたいと考えました。ここではロビーが共通で、すべてがロビーにくっついているような構成です。そうすることによって、ロビーはある時はホワイエに、ある時は美術館のエクステンションに、何もない時には図書閲覧室の拡張部分になります。さらにこの建物と駅を東西通路で直結させて繋げることを考えました。直結する坂道に図書館の駅前分室をつくっています。本館は市内にありますが車がないとアクセスしにくいので、学生たちがここで予約や貸し出しができ、列車がくる直前まで本を読めるような場所にしたいと考えました。
当初の要項では、駅からのアクセス部分は公園にして、駅の反対側を用地とすることが決められていました。駅を降りて公園の中を通って市民会館ヘアクセスするという提案が大半でしたが、私たちは線路に沿って嘴のように市民会館を繋げる提案をしました。
基本構想は市民の地域文化をつくる会の人たちがつくっていましたが、そこに私も加わり、二年間の設計期間中に何度もワークショップを重ねました。ある時は模型を持っていって説明したり、坂道に建つ図書館がいかなるものかを説明したり、境目のない共通ロビーの使い方を検討したりしました。小ホールはひとつの部屋のようにしたいと思い、階段の勾配が緩いホールを提案しました。それだと見えないのではないかと言われ、椅子を並べて実験もして、やはり見えないという結論が出てしまいましたが、後日、その誤解は解けました。見えるか見えないかは重要な問題ではなく、空間が共有できているかどうかが大切だということを分かっていただきました。二年間の工事期間中は一緒に管理・運営計画をつくりました。
共通ロビーと駅のプラットホームの高さが揃っているので、お互いに見通すことができます。跨線橋の自由通路を渡ったスロープに図書館分室、楽器繰習室、トイレがあります。下の階のトイレは車椅子用のトイレです。車椅子用のトイレはあまり感じのよいものがないので、ここでは中で休憩したくなるトイレをつくりたいと考えました。大ホールには飛行機のトイレのような男女兼用のトイレを設けています。ある時は全部女性用になるなど、日によって使い分けることを提案しましたが、かなり批判されました。結局、男女別が前提ですが、可動間仕切りを用いて、男女比を調整できるというものになりました。
最初の設計段階から参加していた市民の策定委員会が現在も管埋・運営委員会になって、開館後もサポートしてくれています。10800平方メートルの建物ですが、職員は二人だけで、それをたくさんのボランティアや市民サポーターが支えてくれています。
小ホールのホワイエから美術館の中や大ホールのホワイエ、演奏者が通っていく場所も見えます。異なる目的で来た人がお互いの活動を見ることができる機会をつくりたいと考えました。私が「せんだいメディアテーク」でやろうとしていたものに近い状態です。美術館の中に小ホールヘ繋がる階段が通り抜けています。展覧会がちらっと見えることで、行ってみようと思ってもらえれば成功だと思います。美術館の外も展示空間として使うことができます。
駅とは反対側の東側のエントランスは、慎ましやかにつくったために入口の位置が分かりにくいようで、今サインを考えているところです。ファサードはPC板を吊り込んだもので、内壁は桐のシートを貼って木質の表情としています。リハーサルルームは小ホールとしても使えます。800席のホールは可動形式にして、300席のホールをクラシック専用にしています。周辺の施設にその逆はあるので、それらと相互補完させるためです。小ホールの真ん中の特等席の場所にガラス張りの母子室を設けています。大ホールの客席は可変式ですべてを取り払うこともできる形式にしています。一番後ろの壁を開け放すことができるので、ロビーまで客席にすることができます。客席はエアキャスターワゴンの上に載っているのでふたりで動かすことができます。すべてを平らにすることができて、舞台から客席、壁を開けるとロビー、中庭の屏を開けるとテラスまでワンフロアでひと統きになります。ホールの箱が変わらない時の客席可変だけではなく、ここでは箱そのものが開放されるので、いろいろな可能性が生まれるのではないかと思います。
この建物には繰り返しがなくて、それぞれの要素がそれぞれの場所で別々の顔を持つので、施工図のチェックも大変でした。それぞれの場所に空間性があって、それが融合している状態、用途が特定されないで別の目的で誘れた人が容易にすれ違う、昨日までの自分が知らなかったような興味が他の人の活動を見て開かれていくような複合施設になってくれればよいなと思っています。
私たちがつくる建築は竣工で区切りを迎えますが、実際にはそれから30年、50年使い続けていく間にでき上がっていくものです。なおかつ、たぶん私が死んだ後もしばらくは使われると思います。建築が素晴らしいものだと思うのは、建築が残ることでつくった人の考えがその人がいなくなっても残ることです。木島安史先生の作品に、阿蘇の「孤風院」という講堂をアトリエに改修した建物がありますが、今でもそこに行くと先生から教わっているような気持ちになります。それは建物が残っているから可能なことだと思います。
素材に厳しかったスカルパが「ブリオン家の墓地」をすぐに風化して汚れるコンクリートで建てていることをみなさんは不思議に思いませんか。私は、スカルパが、いつしか墓守りの人がいなくなる頃には、ひっそりと草に埋もれて朽ち果てていくことをイメージしたように思うのです。建築は人よりも長い寿命があるけれども、それでもどこかで寿命があって解体されたり部分的に壊されて新しい材料として使い直されたり、草に埋もれていくものもあるのではないかと考えたのではないかと思います。
改修したりしながら建築を生かして使い続けるのは人間です。時代が経ても人間が使い続けていくことが何よりも大事だと思います。南イタリアのマテーラという町は何千年も人が住んでいた街でありながら、1950年頃に崩壊の危険による避難勧告があって、以来、数十年間ほとんど人が住んでいません。その間に堅牢なはずの石造りの街が崩壊しつつある街になってしまいました。絶えずメンテナンスして必要なものを入れて補強したり、新しいものに取り替えたり、絶えず手を入れていたのが人間です。人体でたとえると血液のような役割を人間が果たしていたのです。ですから、人びとがいなくなった都市は血液が抜けた身体と同じだと言えるでしよう。
これからもスカルパの示唆していることを考えていきたいと思います。