アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ほとんどの学生がキャンパス南側の地下鉄の駅から来るので、そこからの導入部には管理棟があり、まっすぐ行くと「アゴラ」に到達します。「アゴラ」の上には11棟の「スタディ・クラスター」(ラーニング・ポッド)という7〜8層ほどの同一の建物があります。学生はこの「スタディ・クラスター」の中に、まるで建築家のアトリエのように、それぞれ自分のスタディ・スペースを持っています。また東側にはエネルギー・センターと駐車場、北西側には「スポーツ・コンプレックス」やグラウンド、北側に教員あるいは海外からの学生の住居棟があり、その先はすぐジョホール海峡で、すぐ向こうにマレーシアが見えます。南西側は既存の市街地の前に緑の丘をつくっています。
シンガポールは非常に日差しが強いので「アゴラ」にはさまざまなコートをつくり、そこからできるだけ二次的に光が入るかたちにして、空間をつくっています。またスコールがしょっちゅうありますので、雨に濡れることなくすべての棟に行けるようなキヤノピーもしつらえています。
「スタディ・クラスター」の下には、長さ240メートル、幅180メートルの巨大な「アゴラ」があり、学生たちがひとりあるいはグループで一日中過ごすことができます。シンガポールは暑い所ですから、できるだけここで一日を過ごし、夕方になって涼しくなると、「アゴラ」の上の「ローン」に出ることもできます。「ローン」は緑化され、日光のエネルギー負荷を「アゴラ」に直接与えないようにする役割も持っています。
「アゴラ」はライブラリーがメインとなって構成されています。「アゴラ」とは、元もとギリシャの市民たちが集う場所のことで、そこで賢人が人びとに学問を教えたというオリジンを持つ、「学問のための場所」という象徴であるわけです。二層吹き抜け部分の中央に位置するライブラリーは、集団で議論をしながら勉強を進めていくことができる、少々声を出してもかまわないようなスペースになっています。また皆ラップトップ・コンピューターを持っていて、ワイヤレスの大学環境が整っています。このように普通の概念とは少し違うライブラリーになりました。
その他にも、「アゴラ」には両端にカフェがあって、それから特殊な実験室や展示スペース、ステューデンツ・ユニオンなどのいろいろな施設、またそれらの聞に大きなふたつのコートと、いくつかの小さなコートがつくられています。かつて1970年に、オランダで「アゴラ」と称するコミュニティ・センターができました。ここも真ん中に運動する場所があり、二階にカフェがあるという、あらゆるものが一緒になってマルチ・パーパスに使われていた建物でした。その印象が非常に強く残っていて、そこでぜひ今回こうした「アゴラ」をつくろうとなったわけです。
カフェでは、ここだけはエアコンを使わず自然換気にしています。ここで面白いのは、屋台のようなスペースがあり、チャイニーズ、マレーシア、インド系の料理が揃い、日本のおそばまで売っています。もちろんアメリカのファースト・フードもあって、また二階にはラウンジがあってエスプレッソが飲める、という風に日本の学生食堂よりももう少し充実した、ヴァラエティと楽しさがある部分です。こうした楽しさはライブラリーにもあり、真ん中にビリヤード台があったり、コーヒーなども飲めるようにもなっています。そういった意味でも、一般的な大学の施設や環境とは少し違ったものをつくることができたと思っています。
「アゴラ」は北から南に向かって真っ直ぐゆるやかに傾斜していて、その中に二層の高い空間をつくり、なだらかな、丘の街のようなものができています。床は傾斜に沿って段差があったり、東西の方向でカーペットの色が区別されていたりとアイデンティティのある構成です。それとは対照的に、天井は全部一貫して、黒いバックに白いパネルと白い柱で構成されています。地震がない場所ですから、住をかなり細くすることができました。そしてパーティションはすべてガラス張りで、透明性を持たせています。
また「アゴラ」から隣のコートを見ると、コートからちょっと高い所にスペースがあって、さらにその向こうに「ローン」が見えてという風に、重層したメガ・スペースとなっていることが分かります。これによって常に全体を知覚することができ、また段差があることで、小さなコーナーをいろいろとつくることができました。こうしたコーナーには学生の集う場所が自然にできてきます。ここではひとりでラップトップ・コンピュータを持って勉強をしたり考えたりすることができますし、また学生たちが集まって、インフォーマルなディスカッションをしたりという光景を目にします。またシンガポールはいろいろな人種がいる国ですから、マレーシアの学生が音楽を披露したり踊ったりという活動もここでは行われていますが、これはそういう場所をつくろうと思ってつくったのではなく、自然に彼らがつくってくれているわけです。