アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
外観
私が初めて手掛けた長野県茅野市の「神長宮守矢史料館(1991年)」をご紹介します。長野県に諏訪大社という古い神社があり、ご神体は拝殿背後の標高約1,650mの守屋山です。その麓に古くからこの地域に住む守矢家があり、守矢家は諏訪大社の筆頭神官である神長官を代々務めてきました。その守矢家がずっと保存していた歴史資料が長野県と茅野市の文化財となり、それらを保管・展示するための史料館をつくることになりました。敷地は高部という70戸ほどの小さな村で、私が生まれ育った村です。私の名前は、守矢家のご当主が付けてくださいました。そういった縁もあり、守矢家とはずっと親しくさせていただいており、その次の代のご当主から依頼を受け、この資料館をつくることになりました。
縄文時代の名残を伝える守矢家の歴史を、しっかりと表現するにはどのような建築がよいかと悩みました。そこで、まずこの地方の民家を見てみることにしました。一般的に民家が成立したのはせいぜい江戸時代の初期であり、それよりも古いものは滅多にありません。しかし、守矢家は『日本書記(720年)』の比較的冒頭部分に関連する話が登場しますから、その歴史は神話の時代であるとすると、歴史の浅い民家の形式では到底対応できません。もちろん、当時の神社は建築らしいものをつくっていませんでした。拠り所がなく困りながらも、次のような条件を考えました。まず、周辺環境を崩さないこと。それから、日本の神社にも民家にも、もちろん外国の民家にも範を取るわけにはいかないので、そのどれにも関連しないということ。さらに、文化財を納めるため、不燃建築物でなければいけないということ。それらを、たいへん苦労しながらかたちにしました。
入口。軒を支える柱が屋根を貫く 屋根は地元産の鉄平石葺き
近景
この地域では、御柱祭という巨木を崖から引きずり降ろし社殿の四方に建てて神木とするお祭りが有名です。そのお祭りを司っていたのも守矢家であり、御柱のイメージから南東側の入口に四本柱を立てました。屋根は、地元の鉄平石で葺いています。また、外壁には藁入りの土色モルタルの上に赤土を吹き付けた仕上げと、手割りのサワラの板張りの仕上げがあります。「板」は、室町時代に成立したものです。鎌倉時代の末期頃に中国から製材用のノコギリが入ってきたことがきっかけとなっています。世界的に見てもだいたい同時期に、中世に縦引きのノコギリが発明されたといいます。ノコギリを使う前までは、板は割ってつくっていたので、その手割りの板に挑戦しました。村の製材所の知り合いに戦前まで板を割っていた方がおられたので、ご高齢の方だったのですがその方にお願いしました。太い材の横と小口の方からナタを入れ、できたひび割れに鉄のクサビを少しずつ調整して入れながら割っていきます。4〜5cmほどの厚さにし、それ以降はナタで板の切れ目をこじ開けるようにして薄い板に剥いでいきます。そうやって割っていただいた板を壁面に張りました。張り終わった時は、やはり嬉しかったです。製材した板にはない自然の木が持っている味わいがあるのです。
例えば「法隆寺(607年頃、奈良県)」等の床に使われている板は厚さが7cmくらいありますが、当時の記録を見ると、板という材は7〜10cmの間くらいのものと記されていました。今でいうと柱のような厚さがありますね。割り板とは室町以降滅びた技術なので、歴史的な文献等で調べてもあまり詳しい製材方法が分かりませんでした。そこで、たまたま古い神社の修理工事現場から厚さ7センチくらいの割り板の板が床から出てきたので、それらの年輪を文科省に調べていただきました。そうすると、割り板の技術によって1本の木から取れる板は2枚しかないということが分かりました。つまり、昔の人も特別な知恵はなくて、2枚の板を取った後の半円形の木材は、すべて削って使用していたようなのです。今の製材方法と比較すると無駄が多かったことが判明しました。
ホールから展示室を見る
展示室
展示室からホールを見る
断面
2階平面
1階平面
竣工後の反応はさまざまでした。まず、地元のみなさんにはかなり不人気でした。この計画の模型が発表された時には、市役所にわざわざ抗議の電話がかかってきて、「せっかく新しい博物館をつくるのに、どうしてこんなボロ屋みたいなものをつくるんだ」と言われたとのことです。私の父親も不満を感じていたと聞いています。田舎の人は、都会への憧れがありますから、タイルを貼ったり、金属板を張ったりした、もっとおしゃれな建築をつくってほしいという意見があったようです。
しかし、私自身はできるだけ自然の素材を自然のまま使用してつくりたいと考えていました。自然の素材は工業製品と違って、偶然性が強いです。例えば、板はヒビが入ったり穴が開いたり、そういう偶然があって、ばらばらで均質ではありません。その自然の素材の不均質さを前面に出したいと思いました。幸いだったことは、当時まだ若かった伊東豊雄さんや石山修武さん、安藤忠雄さんといった方たちに、「なんだかよく分からないけれど、これは重要なことのようだからもっとやったらいいんじゃないか」と励ましをいただき、それがありがたくて、以降この路線で進めることになります