アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私は四十八歳ですが、この年になると、友人が亡くなるということがぼつぼつと起きてきます。だからといって過剰な思い入れはしたくないのですが、ちょうど一年ほど前にほぼ同世代の三浦周治という男が亡くなりました。ある晩、現在横浜国立大学の先生をやっているほぼ同い年の北山恒さんから電話があって、「京都から岸が来ているから話に来ないか」というので出かけて行ったら、岸和郎さんと、野田俊太郎さんと、それから北山さんがいて、六時ぐらいから食事をして、明け方の四時半ごろまで、ほとんどしらふで建築の議論をしました。大学以来、ほとんどそういうことをしたことがなかったのですが、とてもよい時間を過ごしました。
多分、そういういろんなことがあって、何で建築をやっているのかとか、何でそんなことにこだわっているのかということを、もう一回見直す時期にきているのかなと感じています。これは年齢的なものなのか、時代的なものなのか、よくわかりません。多分両方でしょう。私たちの世代は一生懸命駆け抜けてきましたが、冷や飯を食った時期もあります。新建築社の方から私は寡作の建築家だと紹介されましたけれども、好き好んで寡作であったわけではなく、単に仕事がなかっただけです。それはあまり過大評価しないで聞いてもらったらいいと思います。
それで、もう一度建築とは何か。建築家とは何か。そういうことを考えてみたらいいんじやないかと思うのです。私もJIAのメンバーですが、建築家が本当にこれから職業としてあり続けるのかということは、ぼくはこの問いかけ抜きには語れないと思っています。何で建築をデザインしているのか。何で毎日夜遅くまで図面に向かっているのか。何でこんなに模型をつくらなければいけないのか。何でこんなにCADに力を入れてやらなければいけないのか。それから何でコンペでそれほどまでに表現しなければいけないのか。そういうことに対する根源的なモティベーションを失ったならば、その途端にこの職業というのはなくなってしまうと思います。
大事なことは何かということです。ちょうどこれも半年ぐらい前ですが、建築家ばかりが集まったあるパーティーがありました。建築家だったのですがなぜか外資系の銀行に行かれた方がいて、その人がいわれたことがとても印象的だったので紹介します。「今金融の問題でいろいろあるが、自分はバンクはいらないと思っている。要するに銀行はいらない。世の中が求めているのはバンキングというファンクションだ。バンキングというファンクションがありさえすれば銀行という、そういう固定概念でとらえられている組織はいらないんだ」ということをいわれました。なるほどなと感じました。
われわれ建築家は建築を設計したり、建築に携わることによって、さまざまな情報を得ます。社会の中でどのようにして建築が出来上がってくるかという仕組みについて深く知ることができます。そのこと自体が職能です。それをどういうふうに生かすか。建設会社の中で生かすか、あるいは建築家という場所にこだわって生かすか。もっと違うコントラクションのプロジェクトマネージャーのようなかたちになるのか、さまざまなかたちがあると思います。つまり、建築をつくる、建築のことをわかる能力が生きる場所が建築家の場所です。
そういうふうに考えると、私たちの足元をもう一回考えてみないといけないという話に、また戻ってくるわけです。私もちょうど五十を前にして、もう一回昔のことを考えてみようかなと思って、今日は少しそんなことをつらつらと話してみたいと思っています。