アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
今、LEDを使わないと非国民だと呼ばれてしまうような風潮がありますが、それに対して私は、電球を使うべきだと逆のことを言っています。それは、LEDや蛍光灯を使っている家よりも、電球を使っている家の方が電力消費量が少ない、という面白いデータに基づいています。実は、電球を使っている家では、部屋全体の面積で計ると、平均で50〜100ルクス程度の照度ですみ、自分が使うところだけ300ルクスあればよいわけなのです。ところが、LEDを使っている家は、どこも平均で300ルクスくらいある。蛍光灯を使っている家に至っては、平均1,000ルクスも必要なのです。これは、人間の目の太陽光を基準に光を見ようとする仕組みによるもので、人工の光を見た時に、自然の光の色では足りない波長の色があると感じると、人間の目はそれを補正しようとします。蛍光灯の光にはさまざまな波長があるのですが、その中に実は抜けている色もあって、その色を補おうと明るさがほしくなるのです。LEDは蛍光灯に比べると、少しましなのですが、いちばん新しいものが、いちばんよいというわけではないんです。一方で、電球からはコンスタントにさまざまな波長の光が出ているので、そこまで照度がなくても人間の目は満足するのです。人間はセンサーではないので、ルクスなどの数字では見ていません。結局は、どう感じているかが大事なんですね。
「屋根の家」では、ひとつのアクティビティに対して、ひとつの裸電球をそれぞれ設けています。この照明のアイデアは、今も一緒に仕事をしているライティング・デザイナーの角舘政英さんが考えてくださいました。彼は、「世の中で最も美しい照明って何だか知っていますか。それはね、夜景なんです。夜景は、電気単体を見ているのではなくて、電気の向こうにある人の生活を見ているんです。それが美しいんです」と話してくれました。たとえば、夜景の中で黄色い電気が動いている家が一戸あるとしたら、そこではおばあちゃんが子どもにカレーをつくっているかもしれない。白い電気がぱーっと動いているところでは、カップルがどこかに出かけようとしているかもしれない。夜遅くまで働いているお父さんの光もある。そんなふうに、夜景の光すべてにストーリーがある。それが、夜景を見た時に美しいと感じることなんです。
また、角舘さんがもうひとつ、縁日の話を教えてくれました。縁日の明かりは、最近はLEDを使用しているようですが、これまではずっと電球を使っていました。皆電気を見るのではなくて、そこで起きていることや置かれている商品、出来事を見るんですね。縁日の空間は、実際に測ってみるとおそらく五〇ルクスもないくらいの照度だと思います。暗いのですが、縁日に賑わいがないとは思わないでしょう。人間の目というのは、暗くてもちゃんと見えるんですよね。もちろん、新聞を読む時などはそれなりの明るさが必要だけれど、それがいつも必要なわけではないのです。
さらに、以前角舘さんは、横浜の元町・中華街から一本裏に入った道で明かりについての実験をしたそうです。そこで、街を明るくしてくださいと住民の方がたから頼まれ、本当は数年かかる予算計画だったのに、角館さんはそれを数週間で解決したそうです。実際、街に出てみると、暗かった商店街がいきなり明るくなっていた。角館さんは、ただ単純に街灯を消しただけなのだそうです。これまで、街を明るくしようと街灯の照度を毎年上げていき、最初は300ルクスだったのが、600…700…1,000…と、気づけば何千ルクスという単位にまで照度が上がってしまいました。人間の目には絞りがあって、暗いものと明るいものそれぞれに合わせようとするため、この状態では、真っ暗な商店街と、街灯が煌々と照らす明るい道とを別々に認識してしまう。それが、街灯を消すことによって商店街の明るさと通りの明るさの差がなくなり、街の光が帰ってきた。そうして、皆さん賑わいが帰ってきたと感じたわけです。つまり、結局大事なことは、何ルクスという明るさではなくて、バランスと、そこで起きてることが見えているかどうかなんですよね。よく角舘さんと「人は光の向こうに何を見るのか」という話をするのですが、人は光を見ているのではなくて、光の向こうにあるものを見ようとしているんだと思うのです。