アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
今度は、東日本大震災後に宮城県の南三陸町で設計した「あさひ幼稚園(2012年)」という建物についてお話します。南三陸町は、東日本大震災で特に津波の被害を大きく受けた場所です。この街の清流のひとつを小一時間ほど遡ると、小高い丘の斜面の上に、大雄寺(だいおうじ)という古いお寺があり、そこに向かう参道には、重要文化財の巨木が立ち並ぶスギ並木がありました。しかし、今回の大震災で街を破壊しながら遡上した大津波は、この参道まで流れ込み、海水の塩分によって根から枯れてしまいました。この地域は、1611年にも津波の被害を受けており、三陸海岸の木というのは定期的に津波で枯れてしまっているのです。また、昔から、枯れた木や流木は、家の再建に使われたり財産になるものであり、その枯れた木一本は、平常時で1,000万円ほどの価値のあるものでした。
その事実を知らなかった政府は、地震後、運転停止した原子力発電所の代わりに、バイオマス発電の燃料にしようと、その三陸海岸で枯れた木を伐って次々と運び出し始めました。地元の人はそれぞれの被害の対処に精一杯で、その政府の行動に対して文句や苦情を言う力はありませんでした。この事実を知り、何とかしたいと思っていたところ、ちょうど、ユニセフから被災地復興のためのボランティアの要請がありました。初めは仮設建築の依頼でしたが、私は新築の恒久的な建物を建設することを提案しました。なぜなら、仮設住宅には、ほとんど新築で建物を建てるのと代わらないくらいの費用がかかるからです。それにもかかわらず、震災後、いろいろな都市計画上の問題があったにせよ、気が付いてみたら、仮設のプレハブ住宅が建ち並ぶ、殺風景な街の風景が生まれてしまいました。
敷地となった、大雄寺に通じる階段には、かつての津波被害の範囲が分かる跡が残っており、住職さんは毎週そこで講話をし、地震が来たら大雄寺まで逃げてきなさい、と南三陸の人びとに日頃から呼びかけていました。そのおかげで、東日本大震災の時には、南三陸に住む大雄寺の檀家さんは、大雄寺に逃げて助かっています。
実はこの住職さんは、この地区で唯一の幼稚園である「あさひ幼稚園」の園長先生でもあります。東日本大震災では、園児は助かりましたが、幼稚園の建物は津波ですべて流されてしまいました。そこで、この大雄寺の高台に、津波による塩害で枯れてしまったスギの木を使って、幼稚園の建物を再建しましょうという提案をユニセフにし、このプロジェクトが始まりました。
東北地方では木が大きく育つので、この枯れた木というのは縄文杉よりもはるかに木の体積が大きく、参道の125本の巨木からは、最大60センチ角の柱が削り出されました。実は、60センチ角の柱というのは、普段はなかなかお目にかかれません。奈良の唐招提寺の丸柱が大体直径70センチですが、直径70センチの円からは、約50センチ角の柱しかとれません。つまり、この参道の木はとんでもない大きさだということです。また、どれも海水に濡れてとても重たく湿っていて、職人さんによると、木が乾くのにだいたい10年くらいかかるとのことでした。しかし、10年も待つわけにはいかないので、お城を建てる時に使われる技術である、木がこれからどのように乾いていくのかを読みながら加工していく技術を用いました。
また、生木を扱う方法も職人さんに教えていただきました。ひとつは、大きな生木は芯抜きをしなさいということでした。通常、大きめの生木を扱う時には背割りをしなさい、とよく言われます。なぜなら、木材が乾いていく時に割れが生じるのですが、背割りをしておくと、前もって割れている箇所があるおかげで、他のところが割れてこないからです。しかし、これくらい大きい木材となると、背割りをしたくらいでは割れを防ぐことができず、ばらばらになってしまうのだそうです。そこで、木の真ん中を抜く、「芯抜き」を施します。そうしておくと、外側と同時に内側からも乾いていくので、割れを防ぐことができる。これは、昔からある技術なんだそうです。今は大きなドリルで芯を引き抜けばよいのですが、昔の人たちは一体どうやって穴を開けたのかと、とても不思議に思います。
構造は、乾いた時の木材の曲がりや縮みに対応できるように、柱の中で梁同士を楔で押し上げながら噛み合わせる嵌合(かんごう)接合を採用しました。また、柱を建てる際には、木が自然に生えていた時と同じ方向に建てていきます。そうすると、生えていた頃と同じ方向におじぎをするので、建物が分解しません。
それから、木は根に近い部分が太く、上に行くにつれて細くなっていくので、製材する時、下の方からは幅の広い板材が、上の方からは細い板材がとれます。それらの幅の違う材は床にランダムに貼り、それも床の味になりました。また、手すりも二枚のスギ材による床の梁で挟むようにしてつくり強度を確保して、楔で固定しました。
深い軒も、この建物の特徴です。東北地方は、夏は涼しいと思われがちですが、実際には最高気温は40度を超えます。そして、冬はマイナス15度ぐらいまで下がります。そのような環境の中、この深い軒は、夏は強い日差しを遮り、冬は大雪から子どもたちを守り、本当に役に立ちます。新しい建物ですが、知らず知らずのうちに、古い建築に近いかたちになってきています。
この建物は、かなり短期間で竣工しました。お寺の中という土地の定義上、仮設的な建築しか許されない状況だったので、東日本大震災後最初にできた恒久的な建築物という扱いにはなりませんでした。しかし、他の現場がからっぽになるくらい、周りの大工さんらが駆けつけて一緒につくってくださり、かなり早くでき上がりました。この大雄寺の木は、南三陸町のこの地域の誇りだと皆さん知っていて、その建設に関わりたいと思って来てくださったのです。上棟式の時には、大勢の人が集まり、その場にいた人みんなが泣いていました。
そこにいた人たちは、みなさん東日本大震災の被害に遭い、誰ひとり自分の家を持っていません。しかし、黙々と文句を言わずに、滅茶苦茶になっていた街を力を合わせて復興しているのです。その光景を目の当たりにして、私は本当に日本人でよかったと思いました。先週も私は南三陸町に行っていましたが、世界中を周ってみて、日本人ほど偉い人たちはいないなと改めて思います。これはすごい力だと思いました。そうしてこの建物ができました。ちなみに、この建物は仮設でつくる、ということで始まりましたが、復興のシンボルとして新しい市街の真ん中に残される予定です。
私は、人間の力で津波を止めるのは不可能だと思っています。政府が、津波を止めるために沿岸に巨大堤防をつくるという計画を進めていますが、今回はたまたま15〜20メートル、高くても40メートルという高さの津波でしたが、東京オリンピックの年にアラスカにきた津波は68メートルあったそうで、津波というのは、それくらい私たちの予想を超える高さまで襲ってきます。小さな津波でも、2〜30メートルの堤防では止まりません。つまり、どれだけ堤防で津波を防ぐかということでなく、その時どこに逃げるかということが大事なんですね。私たちは、この「あさひ幼稚園」をつくることによって、400年後の子どもたちにメッセージを伝えようと思っています。楔だけで接合しているこの建物は、金物を使ってつくった建物よりもはるかに長持ちします。この楔だけでも、メンテナンスし続けていれば、千年くらい持たせられる上に、力学的にもきちんと解けています。そして、400年後の子どもたちに、「この木は前の大津波で枯れたんだよ。だから、地震が来たらここまで逃げてきなさい。そうすれば、あなたたちの命は助かるからね」というメッセージを発し続ける。そういう建物です。これも、また、「建築が何を伝えるか」ということだと思います。