アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築は、ご承知のようにいろいろな面でとらえることができます。ひとつは、単純に美学的な立場で見ることもできますし、社会的産物としていろいろな効用とか意義について論ずることもできます。あるいは20世紀以後の特徴でありますが、思想の問題として建築をとらえることもできます。つまりイデオロギーとしての建築が非常に脚光を浴びてきているということもいえますし、それから、より大きな文化というコンテクストの中で、最近は建築の持つ、あるいは与える意味に関心が注がれています。絵画、彫刻よりもわれわれの身近に存在するものとして、単に建築家の中だけでなしに多くの他のジャンルの方々も興味を持っているからでしょう。しかもそれだけではなくて、実は建築というのは非常に政治性も持っています。日本ではそれほどでもないんですが、それでも地方自治体などへ行きますと、よく市制何年、あるいは再来年に知事選があるから、市長選があるからどうしてもこの建物を完成させてほしいというようなかたちでデッドラインが決まってくるということは、皆さんもよくご経験になっていると思いますが、非常にポリティカルなところがありますね。
特に、ヨーロッパの中でもフランスヘ行きますと、ナポレオン一世から三世ぐらいに端を発して、建築というものが権威の象徴として脚光を浴びるようになりました。いまでも、フランスでは重要な建造物に関しては大統領が直接施主といいますか、全体構想あるいは建築家の指名にかかわり合いを待ってくることが非常に多いわけです。皆さんもご承知かもしれませんが、リカルド・ボッフィルというスペイン人の建築家は、この前の大統領のディスカール・ディスタンに認められていまして、その関係でフランスに非常に大きなハウジングをいくつかやる機会を得ておりますし、ミッテランの時代になりますと、今度はまた大きなコンペをいくつかやって、やはり自分のいる間にさらにパリにモニュメントを加えようという、そういった面があるようです。文化が良い意味でも悪い意味でも政治にかかわり合っているわけです。
しかし建築は、建築家の目から見ますと、最終的には空間、それをつくるものとして形態があって、寸法があって、それを構成している物質があって完結する。これだけは、たとえ石造の建築でも木造でもあるいはガラスでも鉄の建築でも、あるいは空気膜になっても変わらないものなんです。
こういった中で、形態論、空間論はいままでも盛んに議論されていますが、一方においてわれわれは絶えず実際の材料を手にし、それを使って、このホールでもビルでもそうなんですがつくっています。その中で単に林料の性能がどうだったかとか単価が幾らだったということを越えて、その材料自体が持っている物質性(マテリアルというと物質なんですが、マテリアリティというと物質性になります)が非常に大事なんですね。つまり建築の性能は確かに物質が決定しますが、その建物とか空間が発信するメッセージのあるものは物質性によるところが大であるということです。ですから、建築の意味論をいったときには、むしろ物質そのものよりも物質性が問題になります。
われわれは実際に建築に携わる者として、建築性能に対して責任を持たなければなりませんから、そういった意味では物質の持っている質そのものを重要視します。遮音性がいいとか耐候性がいいとか、あるいは耐水性にまさるとか、いろいろなことをチェックするわけですね。しかし一方において、建築が都市の中で、われわれに対してメッセージを発信してくるとすると、つくっている材料が与える感覚が非常に重要になってきます。「あれは非常にやわらかい感じを与える」とか「非常にシャープな感じを与える」とか。それによって、われわれが新たにいろいろな想像を、その物質を通して喚起される、あるメッセージを受けるわけです。そういうことが建築家にとっては非常に大事なことではないでしょうか。ただ「天井はミネラートンにしましょう、床はPタイルでいいです」ということは、わりあいと単価の低い建物のときには、それなりにわれわれの決定要因になる場合が多いんですが、もうひとつ突っ込んで考えてみて、このミネラートンの天井から何かを発言させるためにはどう使ったらいいかとか、Pタイルというのはどういうふうに使うと、われわれの意図している床というものに対して発言をさせることができるかとかいろいろ考えてきますと、それなりに同じ材料も使い方によって空間・場所の物質性を語らしめたり、語らしめられなかったりすることができます。