アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
昔の建築を考えてみますと、使われる、あるいは使える材料が限定されていました。そもそも建築の職能の始まりを歴史的に見てみますと、初めのうちは一般の人々が心要に迫られてものをつくっているが、やがてどこかでモニュメントをつくろうということになります。たとえばエジプトの石の建築をとってみてもいいと思うんですが、石を使ってさまざまな神殿とかピラミッドをつくるようになります。そうしますと、どうやって石を採掘し(加工し)どうやって運んで、積むか、石に関するさまざまなテクニックが開発されるようになります。これ自体は既にそこにプロフェッションの兆しが見られ、そういうことを知っている人が、あるいはそういう技能を駆使できる人がメイソンになって、やがて彼らがブロフェッショナルの建築家として社会的に認知されていきます。同じことが木造についてもいえます。単に軸組み構造の小屋をかけるというのはだれでもできるのですが、より高度な木造建築が発達するにつれて、それに関する特別な技能を待っている者が棟梁として出現し、われわれのいう建築家の前身になっていくわけですね。
したがって、材科をどう使えるかということは、どのように美しいものをつくれるかということと別に、歴史的にいってもきわめて昔から存在した問題であり、興味の対象だったのです。ですから、今日われわれの社会はかつてのように単純な材料を使うだけでなく、もちろんそれ自体も大変に深いところにいけるわけですが、さまざまな材料を駆使しなければいけません。対象は石や木はもちろんのこと、コンクリートとか鉄、ガラスあるいはプラスチック系の新しい材料−−新材料と称して次々とメーカーはいろいろなものを開発します。その中で建築家がある主体性をもって選択し使っていく中で、先ほどいいましたような性能としての素材あるいは加工された材料の素材性と、それらの発信する物質性の両方が大事になります。特に後者にはもしも建築で何かを発言しよう、いまいった美の問題とかアイデオロジーの問題になったとき、看過できない、大事にしなければいけないいろいろな問題があると信じます。
先ほどいいましたように、私自身、実際に建築をつくり始めましてから30年以上たっていますが、その間日本は高度成長の波に乗り今日に至りました。考えてみますと実際に仕事を始めましたときは、そうした高度成長の始まりかけの時期でした。もちろん物価も安かったのですが、名古屋大学の『豊田記念講堂』をデザインしましたときはいまも覚えておりますが、2,000坪(6,600平米)の建物が二億円で、名古屋だから少し安かったということもあるのですが、当時の単価にしますと一平方米三万円でできました。既に鉄筋コンクリートは戦後日本のひとつの大事な材料として脚光を浴びていまして、前川国男先生、丹下健三先生、その他多くの方が実験的なかたちで試みられ、その影響も受けまして豊田講堂は基本的にはコンクリート打放しの建物でした。まだアルミのサッシュが非常に高くて、スチールサッシュが普通の時代だったのを覚えています。床材も、いまと同じようなPタイルぐらいがあって、内装はまだ内装制限がそれほど厳しくなく、木のパネルを使えた時代だったと思います。
だんだん日本も豊かになって、高い材料を使えるようになってきました。しかし今度は逆にそれと同時にいろいろなかたちで選択も行わなければならないようになりました。最近、建築において軽さとか飛翔性とかいうことがよくいわれますが、軽さというような問題は、もはや形態とか寸法とか実際の重量の問題を越えて、表層の物質が発信する感性と密接にかかわり合っています。