アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
1999年にトルコで大震災があつた時には僕の災害支援活動も世界中でだんだん知られてきていたので、向こうからきてほしいと連絡がありました。地元の紙管メーカーやピール会社が材料をすべて夕ダで支給してくれ、すべてボランティアの手で紙のログハウスを組み立てました。トルコは神戸より寒いので、現地の子どもたちに手伝ってもらって、紙くずを紙管の中に詰め込むことで断熱性を高めました。
2001年にインドで大地震があった時も仮設住宅の建設に招集されました。近くに布の工場があり、布を紙管に巻いて出荷しているので、紙管は簡単に手に入りました。でもプラスチックがなかなか手に入らず、地元でつくられている葺で織ったマットを重ねて屋根にしました。インドの人はアルコールを飲まないので、ビールケースも見つかりません。コカコーラのケースを使ったらと言ってくれる人もいたのですが、コンテクストに合わないと思い、伝統的な土間の基礎をつくりました。つくった建物は住宅と学校として使われました。
2004年のスマトラの大地震では、津波がアジアの国々を襲いました。いくつかの国からきてくれと言われましたが、一番大変そうだつたスリランカの南にある、小さなモスリムの漁村の住宅再建に行きました。国からある程度住宅のプランを与えられ、それに従わなければならなかったのですが、そのプランを一部変更し、パスルームとキッチンを家から離して全体に屋根を架けることで、住宅の中に半屋外的な、あるいは屋内的な空間をつくりました。スリランカはとても暑くて、ごはんを食べたり作業をしたりするのはいつも日陰です。なので、そうした日陰の空間を屋根の下につくったのです。
基礎には、地元でつくられる土とセメントを混ぜてつくったブロックを使いました。職人でなくても積めるので、日本から学生を連れていって皆で積みました。津波で家具も全部流されてしまったので、工場でつくってきた家具のユニットをブロックでできた構造コアの間に嵌め込んでいます。この半屋外空間は予想通り非常に有効に使われています。
2008年に中国の四川省で大地震があった時も、すぐに現地に行って仮設住宅をつくり始めたのですが、地元の役人から外国人は仮設住宅をつくるなと言われました。がっかりしていたら、代わりに仮設の小学校をつくってくれと言われました。成都市ではずいぶん多くの小学校や中学校が地震で潰れていたのです。そこで日本の学生を連れていって、一ヵ月間合宿をしました。地元の学生と協働し、全部で500平方メートル、9教室をつくりました。地元で手に入る紙管と、木のジョイントでフレームをつくっています。3棟ずつ、合計9棟の校舎ができました。学校がなくなって皆バラバラの学校に分かれてしまったので、九月にまた元の学校に戻ってくることができてとても喜んでいました。
三年間だけ使いたいということでしたが、三年目になる昨年、手紙がきて、みんな気に入っているので、これからも使い続けたいということでした。なので、今でも使われています。
2009年にイタリアのラクイラで地震があり、旧市街が全滅しました。人的被害は比較的少なかったのですが、3年以上が経つ今でも街は閉鎖され、瓦礁の解体さえされていない状況です。非常に複雑な政治状況で、地元の政治家にお金が回らないと一切何も起こらないのです。ここは元もと有名な音楽の街で、地元のオーケストラや音楽学校があったのですが、地震によってコンサートホールが全部潰れてしまったので、音楽学校の学生や音楽家たちが街を出ていき始めました。つまり、経済的な第二次災害が起きたのです。そこで、仮設の音楽ホールをつくりましょうと市長に提案したら、自分でお金集めてきてくれるならつくってもいいよ、と言われて、設計と同時にお金集めを始めました。ほどなくローマの日本大使館から連絡があり、僕の音楽ホールを日本政府が支援してくれることになりました。国際社会から災害支援を呼びかけようと、サルデニア島で開催予定だったG8サミットが、急逮ラクイラで開かれることになりました。日本からもこの時首相だった麻生太郎さんがやってきました。プレスの前で麻生さんとべルルスコーニ首相(当時)が、われわれのプロジェクトをPRしてくれました。べルルスコーニさんは自分が何を持たされているのか分かっていなかったと思いますが(笑)、紙管を持ってPRしてくれました。それで、日本政府からハーフミリオンユーロ、約6,000万円の寄付をしていただき、250人収容できる「ラクイラ仮設音楽ホール(2011年)」をつくりました。
内外の音を遮断するため、普通は非常に強固なコンクリートで壁をつくるのですが、お金もありませんし、コンクリートでつくると解体が大変です。そこで、仮設材で骨組みをつくり、その中に砂袋を詰めて壁をつくりました。そのままではあまりにもみっともないので、寄付していただいた赤いカーテンを巻いています。
紙管の間隔を少しずつ開けて、音を吸収したり反射したりするように音響設計家と設計し、紙管を音響の内装材として使いました。オープニングセレモニーには、指揮者の西本智美さんが駆けつけてくださり、演奏が行われました。
2010年にカリプ海のハイチで大地震があり、首都のポルトープランスは大変な混乱状況でした。無政府状態で港も空港も閉鎖されてしまいました。そこで僕は隣のドミニカ共和国のサントドミンゴから、陸路を7時間くらいかけて現場へ行きました。現地に着いてみると、住民の人たちは非常に貧しい生活をしていました。地元で材料を揃えたり人を集めたりすることがほぼ不可能な状態だったので、サントドミンゴにある建築大学とチームを組みました。試作品のシェルタを持っていって皆につくり方を教えてお金を送り、サントドミンゴで50軒分のシェルターをつくれる資材を調達してもらい、学生に加工してもらいました。簡単な紙管だけでできていて、被災者が自分たちでつくれる仕組みにしました。