アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
仕事上で人と会う時のことになりますが、僕は人を見る目があると自分では思っています。人に会った時に、この人が自分の味方になるか敵になるかがすぐに見えてくるのです。世界中に行って初めてのところで活動することが多いので、やはり自分と一緒に想いを共感できるような味方を早く見つけなくてはいけない。特に災害支援の場では、その場所に頻繁に行けるわけではないので、いろんな人に会ってまずそれを判断して、一緒に活動できる人を早く見つけるようにしています、白黒では分けられないのですが、災害支援でない仕事でも、この人は応援してくれるかどうか、どうしたら協力してもらえる状況にもっていけるか、そういうふうに考えています。
もちろん学校を卒業してからもそうなのですが、特に学生のうちにやった方がよいと思うのは、世界中の建築を見る旅をすることです。よい建築を見たことがない人には、よい建築は絶対につくれません。腕のよい料理人になるためには、おいしい料理を食べるしかないのと同じです。とにかく世界中を旅行して、よい建築をたくさん見るべきです。
今の日本の危機は、日本人が外に出ない、あるいは外の人を日本に受け入れないことだと思います。だから日本がこんなに弱い状況にあるのです。ハーバード大学で教えている時に、日本人の留学生の数はピーク時の10分の1だと聞きました。「10年前は学問的にアメリカよりも遅れていたので留学しなければならなかったけれど、今はもう追いついたから行く必要がないんです」というパカなことを言う有名な大学の先生もいましたが、日本人が海外に学ばなければならないのは、学間だけではありませんし、それを克服していかなければ日本の将来はないと思います。そういうことも含めて、もっと世界に出てほしいと思います。学生時代ほど時間があって貧乏旅行できる時はありませんから、一番重要な経験だと思います。
僕は建築の価値やおもしろさに規模は関係ないと思っています。逆に言えば、小さいもののほうがおもしろいことが多いように、何でもよいというよりは条件が厳しいものの方が設計意欲がわくので、自分の方から是非これをつくりたい、というのはありません。
最高な時というのは、建築家なら皆同じだと思います。たとえば、女川の仮設住宅に入居者の引っ越しが完了して、皆さんがとても喜んでくれた瞬間というのは最高でしたね。僕らの仮設住宅は、東北中で一番最後にできましたから、入居者はそれまで他の仮設住宅のくじ引きで外れて残っていた人たちでした。「自分たちは外れ続けて、女川一運がない」と言っていたのですが、残りくじを引いて「女川一幸せになった」と言っていました。お金持ちの住宅をつくっても、ボランティアで仮設住宅をつくっても、完成して相手が喜んでくれた時は同じように嬉しいものです。やはりそれが建築家として最高の瞬間だと思います。
一番つらい時というのは、そういう瞬間的なものではなくもう少し持続的なもので、「ポンピドー・センター・メス」の仕事をやっている7年間が人生で一番つらい時期でした。なぜかというと、施工担当のゼネコンも施主も、皆が敵になってしまったからです。フランスのゼネコンというのは世界最悪で、協力体制を取ってくれる日本のゼネコンと違い、入札まではよいのですが、工事が始まった途端に敵になり、コストを下げようとして設計者の許可なく変更しようとしたりするのです。喧嘩に勝つか引き分けるか、そんなことに四六時中エネルギーを使わなければなりませんでした。また、施主である最初の市長はコンペの時に唯一僕に票を入れなかった方で、彼は地元の建築家に設計してほしいと思っていましたし、彼のお抱えのゼネコンに工事をやってもらいたかったので、結局僕らの敵になってしまったのです。7年間、本当は5年間でできるはずが、延長した二年間は一切設計料をもらえずに大赤字を出してしまいました。その7年間は本当につらかったですね。
そこが一番の問題です。「家はどこですか?」と聞かれたら、「飛行機の中です」と冗談半分に答えていますが、本当に飛行機での移動時間が多く、また、飛行機の中が一番リラックスできます。ひとりになれて電話もかかってこない、眠れるし本も読めて映画も見れる。
僕が大好きな建築家のルイス・カーン(1901〜1974年)は、インドに行った帰りにニューヨークのペンシルバニアステーションで死体で発見されたのですが、IDカードも持たず死後一週間経つまで身元が分からなかったそうです。僕の夢は、災害支援に行った帰りに飛行場で野たれ死ぬことですね。そうすると巨匠の真似ができていいかなと思います(笑)
僕は決して弱いとは思いません。今回の震災でも、たくさんの有名な建築家が集まって、さまざまな活動をされています。確かにNPOやNGOの活動や規模から言えば日本は弱いのですが、そういうものをつくらず地道に活動している建築家は、神戸の時は少なかったのですが、今は多いと思います。ですから日本の建築家に社会性がないとは思っていません。日本人は宣伝が下手ですからあまり知られていないのかもしれませんが、日本の建築家も頑張っていますよ。
日本は仮設住宅をつくりますが、国によっては仮設住宅をつくらない国もあります。イタリアは仮設住宅をつくらず、被災直後には軍がテントをつくります。日本以上にプライバシーを重視する国なので、避難所に雑魚寝というのはあり得ません。各家族に同じテントをつくり、大体6ヶ月くらいで本設のアパートをつくってしまい、そこに移れるようにするのです。国の経済レべルや状況によって震災後の復興の仕方が違うので、何年、とはっきり言うことはできません。
日本では仮設住宅の滞在期限は二年間と定められていますが、神戸の震災でも二年では出られず、一番長くて四年でした。今回の東北ではさらに、土地を整備し直して盛り土したりしなければならないので、神戸以上に時間がかかると思います。ただ、僕らがつくった仮設住宅は、町長がそのあと移設して学生の合宿所として使いたいとおっしゃってくれています。本設としても使えます。入居している方も、もっと住みたい、一生住みたいくらいだと言ってくれます。法律の問題と実際の問題と両方ありますから、何とも言えないのです。
ちょうど今スタッフから連絡をもらってどうしようか考えていたところでしたので、まだアクションは起こしていません。2003年のニューオリンズを襲ったハリケーンの時には、支援活動に関わりました。その時は白分から行ったのではなく、俳優のブラッド・ピットさんからメールをもらったのです。実は彼は建築にたいへん興味があり、自分で「Make It Life」というNGOをつくって、貧困層のためにローコストの住宅をつくって提供しようとしていました。それで、彼は世界中の建築家何人かにメールをして、ボランティアで家を設計してくれと頼んできたのです。ボランティアの仕事ではありましたが、引き渡す時にブラッド・ピットと記念撮影をしてもらいました(笑)。
コンサートホールとしても使用できる教会ということで、相当大きな構造になるということが予想されました。現地にたまたま紙管工場があったので、簡単に安くできるA型フレームという、壁をつくると同時に屋根ができる構造を紙管でつくろうと思いました。倒壊したカテドラルから得たプロポーションや三角形をモチーフとして使っています。
日本ではあり得ない状況だと思うのは、被災した建物はほとんど原形をとどめているのに構造がダメージを受けているために解体しなければならず、それを市民が自分たちの手でやっていることです。壊れていない部分も、自分たちの手で壊さなければならない。これは悲惨な状況だと思います。それを目撃した時は本当につらいものがありました。被災地に行くと、死者の数だけでは計り知れないいろいろな問題が見えてきます。そんな中で少しでも新しい建物ができたのはよかったと思います。
繰り返しになりますが、自分の喜びや満足という意味では変わりはありません。特権階級の人でも仮設の建築で暮らすこともありますし、ボランティアの仕事は必ずしもマイノリティのためのものではありません。僕自身の経験としても、ボランティアで得た経験を別の仕事で活かすこともありますし、その差がだんだんなくなってきているように感じます。唯一あるとしたら、設計料をもらえて僕のパートナーが喜んでくれるかどうかの違いくらいですね(笑)。
やはり耐震ですね。お金がなくてなかなか十分に耐震補強をできない人もいるので、いろいろな工夫をして既存の建物の耐震を手伝ってあげるというのは重要なことだと思います。
僕が今、備えとしてやっていることはふたつあります。ひとつは、今回のように紙管を車に積んでキャラバンのように避難所を回り、その都度役人の人たちに頭を下げて説明しなければならないのは嫌なので、災害が起きる前から役人の人に見せて使い方を説明しておくために、間仕切りの講習のようなことをしています。
もうひとつは、神戸の時もそうでしたが、短期問では仮設住宅の準備をしきれないという問題を解決するために、新しい夕イプのローコスト住宅のシステムを開発しました。途上国に工場をつくって、生産を始めたいと思っています。継続的にローコスト住宅をつくり、それにより途上国のスラムを改善しつつ、地元の雇用を生み出します。その工場は持続的に稼動し続け、いざ地震があった時には、被災地にその住宅を持ってきて仮設住宅として利用するというシステムです。残念なことに途上国の住宅と日本に必要な仮設住宅のレべルは近いので、そうした汎用性を持たせることができるのです。そのような、地元の雇用と住宅の改善をしつつ、将来の日本の仮設住宅の供給に備えようというプロジェクトを始めたところです。