アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
2011年、東日本大震災後に避難所を訪れた時、そこには阪神・淡路大震災の時の避難所と見紛うような光景が広がっていました。体育館のような広いところに被災した人たちが大勢集められ、間仕切りもなく雑然とした中で寝ているのです。このようなプライバシーのない、人権を無視した避難所の状況を、日本政府は地震がある度にずっと続けているのです。毎回言われているように、プライバシーがないために皆精神的に参っています。更衣室がなく、女性が布団をかぶって着替えているところもあります。
非常に悲惨な状況を目の当たりにし、なんとか間仕切りをつくろうと思って、新潟県中越地震の時も、福岡県西方沖地震の時にもいろいろな試行錯誤をしてきたのですが、やっと今回ひとつのよい解法が見つかりました。太い紙管に細い紙管を差し込むだけの簡単な仕組みです。実際、そんなに完壁に閉鎖した空間は必要ないのです。役所の人からは間仕切りがあると管理しにくいと言われますし、被災者の人たちからも、昼間は皆で話したい、避難所にテレビがひとつしかないので皆で見たい、という意見がありました。なので、ある程度フレキシブルに開け閉めでき、家族の人数に合わせて大きさも自由に変えられるようにしなければなりません。また、安く簡単にできるようにということで、紙管とカーテンでできる間仕切りをつくりました。紙管は簡単に切って家族のサイズに合わせることができます。
それをトラックに積んで避難所を回りました。大体の場合、意地悪な役人に会うと「そんなものない方がよいが、とりあえず更衣室として二軒分だけ置いていってくれ」と言われます。たまたまよい役人の方に会うと、「100軒分つくってくれ」と言われることもあります。その時はすぐに材料を調達して、一週間後にまた戻ってつくりました。そのように役人を説得するのがなかなか大変なのですが、それをひとつひとつやっていくうちにだんだんと広まって、間仕切りのことが新聞などで取り上げられると、地元の人たちから欲しいという声がたくさん寄せられました。東北中の避難所を一軒一軒、学生と一緒にデモンストレーションをして回りました。実際にはもっとたくさん回ったのですが、3ヵ月間に50ヵ所の避難所で、1ユニット2メートル角の間仕切りを全部で800ユニット強つくらせてもらいました。簡単に組み立てられるので、住民の人たちも参加して皆で組み立てました。岩手県の大津市高校の体育館を訪れた時には、役人がいなくて物理の先生が取り仕切っていたので、すぐに採用してくださって、写真(前頁)のように2時間ですベての間仕切りが完成しました。