アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
では、現代のわれわれはどうかというと、こうした構造を持つた住宅に住んではいません。現代のような、ひとつの住宅にひとつの家族が住むという住み方を、私は「一住宅一家族」システムと呼びたいと思っています。「大きな共同体」が崩壊し、住宅という「小さな共同体」が国家という枠組みに直接結び付けられているという住み方です。 これはルードヴイッヒ・ヒルベルザイマーが1924年につくった「ハイライズシティ」という都市計画です。集合住宅の下部には商業施設があり、その建物の間を自動車が走り、ぺデストリアンデッキの上を歩行者が行き交い、地下鉄が都市を繋いでいる。「ハイライズシティ」は、現代の私たちが住んでいる都市そのままの風景です。その最初のモデルだと言つてよいと思います。こういうものを目指して、私たちは都市をつくってきました。
このころから都市における住まい方が劇的に変わってきます。それ以前の都市は、たとえばウィーンやベルリンでは、田舎から出てきた労働者たちが、ほとんど雑魚寝のようなかたちで住んでいました。現在、私たちは「共同体内共同体」ではなくて「一住宅一家族」という住み方を当然だと思っていますが、これは1920年代に建築家たちによつて発明された住み方なのです。
当時、第一次世界大戦が終わって帝国主義国家が軒並み崩壊し、ひとつの民族にひとつの国家という形式がヨーロッパあるいはその周辺国でつくられていきました。建築家は「一家族一住宅」システムによる国民国家づくりをさまざまなかたちでサポートしていき、CIAMはまさにそれを担っていました。「最小限住宅」の会議が1929年、1933年には「アテネ憲章」が採択されました。
ル・コルピュジエも1922年に「300万人のための現代都市」という「一住宅一家族」システムをつくりました。私はル・コルビュジエもこのような都市のつくり方には実は相当疑問を持っていて、どうしたらコミュニティを形成しつつ「一住宅一家族」が閉鎖的にならないかということを考えていたと思います。それは必ずしも実現しませんでした。「ユニテ・ダビ夕シオン」にしても、ル・コルビュジエはさまざまなコミュニティ施設をつくろうとはしましたが、住宅は完全に閉じられています。
1955年に日本住宅公団ができて、「一住宅一家族」はそのまま日本に輸入されてきました。そして今や、すべての住宅が「一住宅一家族」になっています。つまり「一住宅一家族」は、1920年代のヨーロッパに始まり、現代の私たちの都市の風景にまで繋がっているわけです。